Top  > 古今和歌集の部屋  > 本居宣長「遠鏡」篇  > 巻十八 雑歌下

<<  1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12  13  14  15  16  17  18  19  20  >>

933   
  世の中は  何か常なる  飛鳥川  昨日の淵ぞ  今日は瀬になる
遠鏡
  世ノ中デハ何ガイツデモカハラヌモノヂヤゾ  アノ飛鳥川ヲ見レバ  昨日マデ淵デアツタ所ガサ  今日ハモウ浅イ瀬ニナル  川サヘサウヂヤ  スレヤナンデモカハラヌ物ト云ハナイ

934   
  幾世しも  あらじ我が身を  なぞもかく  海人の刈る藻に  思ひ乱るる
遠鏡
  モウ生テ居ルアヒダモ何ホドモアルマイ  此ノ身ヲ  海士ノ刈ル藻ノ  乱レタヤウニナゼニオレハマア  此ノヤウニドウカウトイロ/\ニ苦労ニ思ウコトゾ  モウジツカノ間タナレヤ  ドウデモカウデモヨイコトヂヤニ

935   
  雁の来る  峰の朝霧  晴れずのみ  思ひつきせぬ  世の中の憂さ
遠鏡
  心ノハレル時モナシニ常住思ヒゴトノツキルト云コトモナイ  コノ世ノ中ノツラサワイノ

936   
  しかりとて  そむかれなくに  ことしあれば  まづなげかれぬ  あなう世の中
遠鏡
  サウヂヤト云テ  ノガレラレモセヌ世ノ中ヂヤニ  ナンゾト云フト  マヅアヽウイ世ノ中ヤト云テナゲカルヽ

937   
  みやこ人  いかがと問はば  山高み  晴れぬ雲ゐに  わぶと答へよ
遠鏡
  京へまかりのぼりとあるを。打聞に誤なりといひて。まうのぼりと。改められたるは。ことはりはさることなれども。中々に例にたがへり。そは古へになづみて。此集のころの詞づかひを。わきまへられざるなり。哀傷の部の詞書にも。京にもてまかりてとあるをや。今の京になりての詞には。すべて京にまれゐなかにまれ。かなたこなたの尊卑上下にはかゝはらず。あなたへ行をまかるといひ。こなたへ来るを。まうでといへる一種あり。例を考へわたして知るべし。常に多き詞なり。
モシ京ノ人ガ  ワシガコトヲ  ドウヂヤト尋ネタナラ  山ガ高サニ  ジヤウヂヤ雲ノハレヌヤウニ心モハレヌ  遠イ国ニ難儀ニオモフテ居ルト云ツテ下サレ

打聴
  文徳実録に仁寿二年九月従五位下小野朝臣貞樹為甲斐守云々京へ上る人は甲斐の介掾いづれの人にても朝集使税帳使[チヤウシウシゼイチヤウシ]などに上るなるべし京へと書てもみやこへとよむ今の本にまかりのぼりと有はまうのぼりの誤也まかりとは都より下る詞也仍て改めつ...

938   
  わびぬれば  身を浮草の  根を絶えて  さそふ水あらば  いなむとぞ思ふ
遠鏡
  ワタシハモウウイツライ身デ  難儀ヲ致シテヲリマスレバ  浮草ノ根ガナウテ  ドチヘデモ水ノユク方ヘサソハレテユクヤウニ誰デモサソウテクレル人ガアラウナラ  ドツチヘナリトモ参ラウトサ存ジマスル

939   
  あはれてふ  ことこそうたて  世の中を  思ひはなれぬ  ほだしなりけれ
遠鏡
  人ノアヽハレオイトシヤト云テクレル詞ガサ  ウタテヤ  世ノ中ヲエ思ヒハナレヌホダシヂヤワイ  タマ/\ニモサウ云テクレル人ガアルト又ドウヤラ  ステルモ残リオホウナツテサ
打聞うたての説わろし

打聴
  是は中々に人の我を哀といへるこそうたてけれ世を思ひはなれて今は捨もすべき身のさすがに心よわくえ捨ぬほだしとなると也あはれは人の我をあはれと云也うたては既にも云別様[ベチヨウ]の義にて我思ふとは別様にてせんかたなきと也...

940   
  あはれてふ  言の葉ごとに  置く露は  昔を恋ふる  涙なりけり
遠鏡
  昔ヲ恋シウ思フテ  アヽヽハレアヽヽハレト云フタビゴトニ涙ガコボレル  スレバソノアヽハレアヽハレト云フ言ノ葉ヘ草ノ葉ヘオクヤウニオク露ハ涙ヂヤワイ

941   
  世の中の  うきもつらきも  告げなくに  まづ知るものは  涙なりけり
遠鏡
  世中ノウイコトモツライコトモ  云ツテキカセモセヌノニ  マヅ一番ニ知ルモノハ涙ヂヤワイ

942   
  世の中は  夢かうつつか  うつつとも  夢とも知らず  ありてなければ
遠鏡
  夢デアラウカ  正真ノコトデアラウガ  ソウタイ世中ノコトハミナ  アツテナケレバ  正真ノコトヂヤトモ  夢ヂヤトモ  ドウモシレヌ

943   
  世の中に  いづら我が身の  ありてなし  あはれとや言はむ  あなうとや言はむ
遠鏡
  世ノ中ニドレドコニ我身ガアルゾ  人ト云フモノハ明日死ナウモシレヌガ  明日ニモ死ネバヂキニ埋ミカ焼カシテシマヘバ  此身ハアツテモナイモノヂヤ  ソレヲ思フテ見レバ  アハレトイハウカ  アヽヽウイトイハウカ  サテモサテモ人ノ身ハハカナイ物ヂヤ
余材。四の句をもしろきものとやいはんと注したるは。たがへり。

余材
  いつらは事のまこと偽を極めとふやうの詞也いづら我身の真実はと極めとひてもとむれども有てなければおもしろき物とやいはんあなうのものとやいはんと也上に哀ともうしとも物を思ふときとも哀あなうと過つる哉ともよめり下句語勢は巻頭の元方の歌に似たり

944   
  山里は  もののわびしき  ことこそあれ  世の憂きよりは  住みよかりけり
遠鏡
  山中ハ物ノサビシイコトコソアルケレ  ソレドモ世ノ中ノウイノヨリハマシデ  住ヨウゴザルワイ

945   
  白雲の  絶えずたなびく  峰にだに  住めば住みぬる  世にこそありけれ
遠鏡
  雲ノフダンタナビク此ヤウナ高山ノ峯デサヘ  スメバカウシテスンデトホル世ノ中デサ  ゴザルワイ

946   
  知りにけむ  聞きてもいとへ  世の中は  浪の騒ぎに  風ぞしくめる
遠鏡
  コレ世間ノ衆  知テ居ラルヽデモアラウガ  モシ知ラシヤラズハ  今ワシガ云テキカスヲ  聞テナリトモ  此世ヲバ早ウステサツシヤレ  テウド風ガ吹テ浪ノサワガシウシキリニウチヨセテクル荒イ海ベノヤウナ世ノ中デアヽヽドウモ落付ヌアンドノナラヌヤウスヂヤゾヤ
(千秋云。下句。風吹て浪ぞさわぎしくめるといふ意なるを。さはいひ難き故に。風と浪とを。わけてはいへるなり。)

947   
  いづこにか  世をばいとはむ  心こそ  野にも山にも  惑ふべらなれ
遠鏡
  世ヲステヽドコニサ  住ウゾ  タトヒ野ニスンダリトモ山ニスンダリトモ  ヤツハリ心ハサマヨウテアラウト思ハルヽワイ

948   
  世の中は  昔よりやは  うかりけむ  我が身ひとつの  ためになれるか
遠鏡
  ヨノ中ハ昔シカラ此ノ通リニウイ世中デアツタガ  但シ又オレガ身ヒトツノタメニ此ノヤウニウイ世中ニナツタノカ
(千秋云。ニの句。やはは。たゞの意なり。)

949   
  世の中を  いとふ山辺の  草木とや  あなうの花の  色にいでにけむ
遠鏡
  世間ノ人ガアナウヤト云テ世ノ中ヲイトウテ来テ住ム山ノ草木ヂヤトテヤラウイト云フ名ノ卯花ガ此山ヘ咲タ

950   
  み吉野の  山のあなたに  宿もがな  世の憂き時の  隠れがにせむ
遠鏡
  吉野山ハズイブンフカイ山ヂヤガ  オレガノゾミニハマダソノ吉野山ノアチラニ家ガホシイモノヂヤ  世ノ中ノウイ時ノヒツコミ所ニセウニ

951   
  世にふれば  憂さこそまされ  み吉野の  岩のかけ道  踏みならしてむ
遠鏡
  世間ニカウシテ居レバ次第ニウイツライコトバカリマシテクルニ  一日モ早ウ  吉野ノ難所ナ山ノオクヘヒツコモラウゾ  ヤレ/\イヤナ世ノ中ヂヤ

952   
  いかならむ  巌の中に  住まばかは  世の憂きことの  聞こえこざらむ
遠鏡
  ドノヤウナ深イ山ノ中ニスンダナラ  此ノ世間ノウイコトガキコエテコヌデアラウゾ
すべてかやうに。いはほの中といへるは。みなたゞ岩の立めぐれるよしにて。深き山の中をいふ也。まことに岩窟の内をいふにはあらず。

953   
  あしひきの  山のまにまに  隠れなむ  うき世の中は  あるかひもなし
遠鏡
  山ノオクヘドコマデナリトモカクレウゾ  此ノヤウナウイ世中ニハ住デ居ルセンモナイ

954   
  世の中の  うけくにあきぬ  奥山の  木の葉に降れる  雪やけなまし
遠鏡
  世中ノウイコトニアキハテタ  モウドコマデナリトモ  ユキクレニ  奥山ヘカクレウカシラヌ

955   
  世のうきめ  見えぬ山ぢへ  入らむには  思ふ人こそ  ほだしなりけれ
遠鏡
  世ノ中ノウイコトヲ見モ聞モセヌ山中ヘ  ハイツテ住ウト思フニハ  ドウモ見ステラレヌ人ガアツテ  ソレニサ  ツナガレルワイ

956   
  世を捨てて  山にいる人  山にても  なほ憂き時は  いづち行くらむ
遠鏡
  御坊様モ山ニオ住イヂヤガ  ソウタイ世ガウイト云テ  ステヽシマウテ  山ヘハイツタ人ガ  山ニスンデモ  ソレデモマダヤツハリ  ウイ時ニハ  ドチヘイクコトヂヤシリマセヌ

957   
  今さらに  なにおひいづらむ  竹の子の  うき節しげき  世とは知らずや
遠鏡
  此ノ子ハマア  イマサラナゼニ生レテキタコトヤラ  何ニツケテモ此ノヤウニウイコトノ多イ世ヂヤトハ  シラヌカヤイ

958   
  世にふれば  言の葉しげき  呉竹の  うき節ごとに  うぐひすぞ鳴く
遠鏡
  世ニアレバ何ノカノト人ニイロ/\ウイコトヲイハルヽコトガ多ウテサ  ソノ度ゴトニ泣キマス
(千秋云。結句。うぐひすのごとくにぞなくといふ意也。)

959   
  木にもあらず  草にもあらぬ  竹のよの  端に我が身は  なりぬべらなり
遠鏡
  ワシヤ木デモナイ草デモナイ竹ノヤウデ  ドチラヘモツカヌ物ニナルデアラウヤウニ思ハルヽ

960   
  我が身から  うき世の中と  名づけつつ  人のためさへ  かなしかるらむ
遠鏡
  ナンジフナ身ハ  ツネ/゛\サテモウイ世中カナ/\ト歎テ  ソシテ人ノタメニマデ世ノ中ガ悲シウ思フテヤラレルガ  此ヤウナ世ノ中ノウイノハ  我身カラノコトデコソアレ  人ハソノヤウニモアルマイニ  ドウ云コトデ人ノタメニマデ  カナシウ思フテヤラルヽコトヤラ
余材たがへり

余材
  わが身のうき事をやゝもすれば人にかたりてなげく故にもとよりはうからぬ人をさへ悲しましむる心也

961   
  思ひきや  ひなの別れに  おとろへて  海人の縄たき  いさりせむとは
遠鏡
  遠イヰナカヘ別レテ来テ居テ  此ノヤウニオチブレテ  猟師共ノスルシゴトヲマアセウトハ思フテカイ  思ヒモヨラナンダコトヂヤ
(千秋云。なはたぎは縄たぐり也。綱縄釣縄など。長く打はへおきたるをたぐりよするわざをいへり。)
>> 底本の歌では「縄た」と濁っている。

962   
  わくらばに  問ふ人あらば  須磨の浦に  藻塩たれつつ  わぶと答へよ
遠鏡
  京デ身ガコトヲ誰モ問テクレル人ハアルマイケレドモ  モシモシゼント問テクレル人モアツタナラバ  身ハ須磨ノ浦デ海士ノスルシゴトヲシテ  キツウ難儀ヲシテ居ルト云フテ下サレ

963   
  天彦の  おとづれじとぞ  今は思ふ  我か人かと  身をたどる世に
遠鏡
  ワタシモ御聞及ビノトホリノ仕合セデ  タウワク致シテ  我身デハナイカト存ズル時節ニカヤウニ御訪下サルレバ  今デハモウハヤ  天人ノ御尋ネ下サレタヤウニサ  存ジマスル  サテ/\御深切ナヨウコソ御尋ネ下サレタ
あま彦とは。天上の人をいへり物がたりどもにこれかれ見えたり。余材打聞に。山彦とおなじとて説たるは。かなはず。これは昔よりあやまりて。まぎれたることも有しにや。集中貫之の長歌には。山ひこのことをあまびことよめり。但しかれはもし後にふと写し誤れるにてもあらんか。そはいかにまれ。この歌は。山彦にはあらず。かれになずらへて思ひあやまることなかれ。

余材
  あまびこは山びこに同じおとづれじとは山びこは呼につけてこたふる物なれば今よりはこたへもせじと也我か人かとは源氏夕がほにも君は物も覚え給はず我かのさまにておはしつきたり云々...

打聴
  こはうれひに沈みて我身は存[アル]とも思えず我か他かと身をたどる時なれば誰としてことゝふびきよしなく今は成ぬるにととむらひしをうれしくていふ也天彦は山彦に同じ音といはんにいへる也

964   
  うき世には  門させりとも  見えなくに  などか我が身の  いでがてにする
遠鏡
  オレハ門ヲサシテ出入セヌヤウニモ見ヱヌニ  ナゼニ我身ノタメニハウイ世ノ中デ  得世ニ出ヌコトゾイ
初句は。四の句のなどか下にうつして見べし。さて出がてを。打聞に。籠居ることとあるはわろし。これは官をとらるゝはつぎ/\になり出べき道をうしなふなれば。出がてとよめるなり。

打聴
  此司解てと有は何の故とはしらねど過失ありてなるべしさらば籠居る事を歎く也或抄に出がてとは成出がたき也とさらば司とけて久しく召れざる時の歌とすべし詞書のやうにては只解官せし時の歎きとみゆればさまではいふべからず

965   
  ありはてぬ  命待つ間の  ほどばかり  うきことしげく  思はずもがな
遠鏡
  イツマデモ生テ居ル命デハナイ  オツヽケ死ヌルヲ待ツワヅカノ間ヂヤニ  セメテソノ間ナリトモ  ドウゾ此ノヤウニツライ苦労ノ多ウナイヤウニシタイモノヂヤ

966   
  つくばねの  木のもとごとに  立ちぞ寄る  春のみ山の  かげを恋つつ
遠鏡
  筑波山ノキツウシゲツテアルヤウニ御メグミノ深イ春宮ノ御蔭ヲ  コノ上ヘナガラドウゾト頼ミ奉ツテハヒタスラ其ノ御所辺ヲサ  オシタイ申シマスル
余材上の句の説わろし。

余材
  ...このもと毎とはかたへの親王たちの御あたりへまゐるをいへるか春のみ山とは春宮の帯刀なれば春のみやまの御影をこふると云心によめり...

967   
  光なき  谷には春も  よそなれば  咲きてとく散る  物思ひもなし
遠鏡
  日ノ光リアタラヌ谷デハ  春モヨソノコトデ  花ノサクコトモナケレバソノカハリニ又  早ウ花ガチツテ惜イ思ヒモナイヤウナモノデ  オレガヤウニ本カラ花モサカヌ身ハ  人ノ今度ノヤウナ  歎キモナケレバケツクコレモマシカヤ

968   
  久方の  中におひたる  里なれば  光をのみぞ  たのむべらなる
遠鏡
  コノ里ハ月ノ中ニハエテアルト申シマスル桂ノ里デゴザリマスレバ  ヒタスラアナタ様ノ光リヲサ  頼ミニハ致シマセウト存ジマスルワタクシハ
后をば。月にたとへ奉るなり。

969   
  今ぞ知る  苦しきものと  人待たむ  里をばかれず  問ふべかりけり
遠鏡
  人ヲマツノハナンギナモノヂヤト云コトヲ  今日サ始メテ知リマシタ  コレナレバソウタイ  人ヲ待テ居ル所ヘハ  ブサタヲセズニ  早ウイテヤルベキコトデゴザルワイノ

970   
  忘れては  夢かとぞ思ふ  思ひきや  雪踏みわけて  君を見むとは
遠鏡
  深イ雪ヲフミ分テ  トホイ山里ヘ参ツテ  君ニ御目ニカヽリマセウトハ存ジマシタカイ  存ジモヨリマセナンダコトデゴザリマス  ソナタヘ御籠リナサレタコトヲフトワスレテハ  コレハマア夢デハナカツタカトサ  存ジマスル

971   
  年をへて  住みこし里を  いでていなば  いとど深草  野とやなりなむ
遠鏡
  年久シウ住ミキタツタ  此里ヲイデヽインダナラ  タヾサヘ深草ノ里ヂヤニ  イヨ/\アレテ草ノフカイ野ニナルデガナゴザラウ

972   
  野とならば  うづらとなきて  年はへむ  かりにだにやは  君がこざらむ
遠鏡
  サイナア此ノ里ガ野ニナツタナラ  ワシハ鶉ト同ジヤウニ泣テ月日ヲタテマスデゴザラウニ  モウコレカラ  オマヘハセメテチヨツトモ御出ナサルマイ御レウケンカヱ  ソレヤアンマリデゴザリマスゾヱ
かりには。うづらをかりにといふによせたり。

973   
  我を君  難波の浦に  ありしかば  うきめをみつの  海人となりにき
遠鏡
  オマヘガ  ワタシヲナンデモナイモノニナサツテ  ウイメニアフタユヱニ  ソレデワタシハ此ノ難波ノ三津寺ヘ参ツテ尼ニナリマシタ
難波浦三津。海布。海士にてしたてたり。

974   
  難波潟  うらむべきまも  思ほえず  いづこをみつの  海人とかはなる
遠鏡
  ワシハソノヤウニソナタニ恨ミラルヽヤウナ  ナンニモ覚エハナイニ  何ヲマアフソクニ思フテ尼ニハナリヤツタゾイ
浦を見るべき間もなきに。いづれのところを見たぞといへるをもてしたてたるなり。間といひ。いづこといへるに心をつくべし。さてその間といひ。いづこといへるはたゞ詞のしたての方のみにて歌の意にはあらず。このところをよくわきまへずは。まぎるべし。歌の意は。恨みらるべきこともおぼえず。何事をうらみてといふ意なり。

975   
  今さらに  問ふべき人も  思ほえず  八重むぐらして  門させりてへ
遠鏡
  子供ヨアレ案内ガアル  カウ云テヤレ  今ニナリマシテ御尋下サレサウナ御方ハオボエガゴザラヌ  此方ノ内ハイクヘモシゲツタ葎デトヂテ  門ヲサシテゴザルニヨツテアケラレマセヌト云テイナセヨ
此の歌は。右の返しのともにはあらず。別歌なり。

976   
  水の面に  おふる五月の  浮草の  うきことあれや  根を絶えて来ぬ
遠鏡
  ナンゾ此ノ方ヲ  フソクニ思召スコトガゴザルカシテ  チカゴロハトント打絶テ御出ガゴザラヌ  ケシカラヌオミカギリデゴザル
(千秋云。結句。根をといへるはたゞ上のうきくさの縁にて。歌の心にはあづからず。)

977   
  身を捨てて  ゆきやしにけむ  思ふより  外なるものは  心なりけり
遠鏡
  オウラミ御尤デゴザル  拙者モナニカトヨンドコロナイコトデトリマギレテ  存ジナガラ久シウ心外ニ御沙汰ヲ致シタ  我身ナガラ心ニ思フヤウニハナラヌモノデゴザルワイ  身ハ我身ナレバ  ドウナリト我心シダイニナルハズデゴザルニ  心ニ思フヤウニナラヌノハ  ワシガ心ハ  身ヲバ捨テオイテヨソヘインデシマウテ  心ト身トガ別々ニナツタカシリマセヌ
余材よろし打聞わろし。下句は。心におもふより外なる物は。身なりけりといふ意なるを。さはいひがたき故に。心なりけりとはいへるなり。

余材
  思ふより外なるといはんとて身を捨て我心はいにやしつらんとはいへりとかくまぎれて思ひながらとぶらふ事のなかりけるおこたりを本意にあらずと云ふ也或抄に恨ある中なれと身を捨て行やせんずらん思ひの外なるものは心にて有と也といへるは叶べからず

打聴
  我は怨みあればゆくまじとおもへども身を捨て心のそこへ行と也怨めども猶思ひはなれぬ交りにや

978   
  君が思ひ  雪とつもらば  たのまれず  春よりのちは  あらじと思へば
遠鏡
  貴様ノ思ヒガ雪ノヤウニツモツタナラ  ソレヤドウモ頼ミニナリマセヌ  ナゼト申スニ  ソレナラ春カラハモウサウハアルマイト存ズレバサ  雪ハ春ニナレバミナ消マスゾヤ

979   
  君をのみ  思ひこしぢの  白山は  いつかは雪の  消ゆる時ある
遠鏡
  イヤ/\サウデハゴザラヌ  貴様ノコトバツカリ思ウテ  ワシガ来タ北国海道ノ白山ハ  イツサ雪ノ消ル時ガゴザルゾイ  御聞及ビデモアラウガ  白山ノ雪ハ春デモイツデモキエハ致サヌ  ワシガ思ヒモソノ通リデゴザルゾヤ

980   
  思ひやる  越の白山  知らねども  ひと夜も夢に  越えぬ夜ぞなき
遠鏡
  君ノコトヲ思フテ常住我ガ心ハ北国ヘ通ヒマス  ソレデ白山トイフ所モドンナトコロカシラネドモ  毎夜心ガカヨウニヨツテ  ソノ白山ヲ夢ニコエヌ夜ハ一夜モゴザラヌ

981   
  いざここに  我が世はへなむ  菅原や  伏見の里の  荒れまくも惜し
遠鏡
  モウレウケンヲキハメテ  ワガ一生ハ此ノ伏見ノ里ニ住ミハテウゾ  オレガモシヨソヘ移ツテインダナラバ  コノ家ガアレテシマウデアラウ  ソレハマアイカニシテモ残念ナコトヂヤ

982   
  我が庵は  三輪の山もと  恋しくは  とぶらひきませ  杉たてる門
遠鏡
  ワシガ内ハ  三輪ノ山ノ麓ヂヤ  逢タクハ尋ネテ御出ナサレ杉ノ立テアル門ガソデゴザンス

983   
  我が庵は  みやこのたつみ  しかぞすむ  世をうぢ山と  人は言ふなり
遠鏡
  ワガ庵室ハ京カラ辰巳ノ方遠カラヌ宇治山ト云処ヂヤ  外ノ人ハ此ノ山ニ住ンデミテモ  京ガ近イユヱ  ヤツハリ世ノウイコトガアツテドウモスマレヌ山ヂワト云ヂヤガ  拙僧ハコレ此通リニサ  年久シウ住デ居ル
余材に。他人は山の名を。うぢ山となづけてといへるたがへり。打聞もわろし。さて都のたつみとしもいへるは。京の遠からぬよしにいへる詞なるに。むかしよりそのこゝろを得たる人なき故に。この詞いたづらになり。また四の句をもたしかにときえざるなり。四の句は。京近き故に。なほ世のうきことのある山。といふ意にいひかけたるなり。
(千秋云。訳にドウモスマレヌとある詞。よをうぢといへる詞の勢ひにあたれり。)

余材
  ...歌の心は我住所は都のたつみちかく他人は山の名をうち山と名付て住ものもなけれども我はかくすみなしたりと云心也...

打聴
  我庵は都のよその宇治山にかくてすむと也世の中をうく思ひとりてかく山住すると人は云といへるを山の名によせてよめり宇治山は都の辰巳の方なるを指て云也凡て五畿七道も都をもとゝして云習ひ也...

984   
  荒れにけり  あはれ幾世の  宿なれや  住みけむ人の  おとづれもせぬ
遠鏡
  コノ家ハアヽヽハレキツウアレタワイ  此ヤウニシテ何ン年ニマアナル家ナレバ  昔シ住ンダ人ノ音ヅレモセヌコトゾ  サダメテ住ダ人ハアツタデアラウニ

985   
  わび人の  住むべき宿と  見るなへに  嘆きくははる  琴の音ぞする
遠鏡
  此ノ家ハナンジフナ人ノ住ムヤウナ家ヂヤガト見レバ  ソレニツレテ又ソノ歎キノソフ琴ノ音ガサスル

986   
  人ふるす  里をいとひて  こしかども  奈良のみやこも  うき名なりけり
遠鏡
  京ハ人ノワシヲワルイモノニシテ見ステタ所ヂヤニヨツテ  イヤニ思フテ出テキタケレドモ  此奈良ノ都モフルサトヽ云ナレバ  同ジクフルイモノニ思ハレルツライ名ヂヤワイ

987   
  世の中は  いづれかさして  我がならむ  行きとまるをぞ  宿とさだむる
遠鏡
  モノゴト定メナイ此ノ世ノ中デハ  イヅクノドノ家ガ  コレゾト云テ定マツタワガ家デアラウゾ  定マツタコトハナイ  ドコデアラウガ  イキトマツタ所ヲ  オレハ家ヂヤトシテ居ル

988   
  あふ坂の  嵐の風は  寒けれど  ゆくへ知らねば  わびつつぞ寝る
遠鏡
  此ノ相坂山ハキツウ嵐フイテ  夜ルハ寒イケレドモ  所ヲカヘテドコヘイタト云テモ  サキガ又ドノヤウニアラウヤラシレネバ  ナンギナガラモ  シンバウシテコヽニサ  カウシテ寝マスル

989   
  風の上に  ありかさだめぬ  塵の身は  ゆくへも知らず  なりぬべらなり
遠鏡
  ドコト云フコトナシニ風ニフキアゲラレテ  アルクチリノヤウナ  何ンデモナイ此ノ身ハテウドソノ塵ノヤウニ  ユクサキハドコヘドウナツテユカウヤラシレヌヤウニ思ハレル

990   
  飛鳥川  淵にもあらぬ  我が宿も  瀬にかはりゆく  ものにぞありける
遠鏡
  アスカ川ノ淵コソ瀬ニカハルモノヂヤト聞及デ居レ  ソノ飛鳥川ノ淵デモナイワシガ家モ  不仕合セナ時セツニナレバ  瀬ニカハツテユクモノヂヤワイ  瀬ニト云フノハ  ソレアノオアシノコトサ  ガテンカヱ

991   
  ふるさとは  見しごともあらず  斧の柄の  朽ちしところぞ  恋しかりける
遠鏡
  京ハ故郷ナガラ久シブリデモドツテ見マスレバ  何ゴトモキツウモヤウガカハツテ先年ノヤウニモナウテ  シラヌ所ヘ参ツタヤウニゴザル  ソレ故貴様ト毎度碁ヲ打テ  何ゴトモ忘レテ面白ウクラシタ其ノ許ガサ恋シウゴザルワイナ

992   
  あかざりし  袖の中にや  入りにけむ  我がたましひの  なき心地する
遠鏡
  ワシガタマシヒハオノコリ多ウ存ジテ別レマシタ  オマヘノ袖ノ中ヘハイツテ  アナタニトマツテアルカ存ジマセヌ  サウカシテ  アナタカラ帰リマシテカラ  トツトワシハオマヘノコトバカリ思フテ  ウカ/\ト致シテ  タマシヒガコヽニハナイヤウナコヽロモチデゴザリマス

993   
  なよ竹の  よ長き上に  初霜の  おきゐて物を  思ふころかな
遠鏡
  此節夜ハ長シ  竹ノウヘヽハヤ初霜モオイテ  寒イニ寝モセズニオキテ居テ遠イ別レノモノ思ヒヲスルコトカナ
此の遣唐使は扶桑略記に寛平六年八月廿一日にその詔ありしこと見えたる度の事なるべし

994   
  風吹けば  沖つ白浪  たつた山  夜半にや君が  ひとりこゆらむ
遠鏡
  アノ立田山ヲ  夜ガフケテカラ君ガタツタオヒトリ  コエテ御出ナサルデアラウカ  サテ/\アンジラルヽコトカナ
立田山の事。打聞に。ある人の書そへたる説よろし。但し立田川はおのれ別に考へあり。
(千秋云。この立田川の師の考。玉がつまの一の巻。またニの巻に出たり。)
>> 「ある人の書そへたる説」とは下の緑の部分で、「ある人」とは上田秋成のこと。

打聴
  上は序にして白波たつ田山といはんのみ也下はかくれたる事なし万葉にわたの底沖つしら波立田山いつかこしなん妹があたり見ん二人ゆけど行過がたき秋山をいかでか君がひとりこゆらん玉がつま島くま山の夕ぐれに独か君が山路こゆらんこれらを少しかへたる也立田山神武紀に皇師勧歩兵起竜田而其道狭峡人不得並行乃還更欲江東踰胆駒而入中州云々万葉に白雲の立田の山の瀧のへのをぐらの嶺とよめり今のくらがり峠と云はむかしの龍田のをぐらの嶺なるべし

今のくらがり峠をむかしの立田のをぐらの嶺かと云は名の相似たるによてふと思へるのみ立田は大和の平群郡くらがり坂は河内の高安郡也其間南北はるかに隔れり立田山今は亀瀬越といふその山路やまと川の北にそひて東へこゆれば立田の立野といへる所也天つ社国つ社立田彦姫等の神祠立せます是龍田の風祭の祝詞に我宮は朝日の日むかふ所夕日の日がくる所の立田の立野の小野に我宮は定まつりて云々是によるに白雲のたつたの山の瀧の上のをくらの嶺とよめる其瀧の上は即今の大和川のたぎつ流にて今も亀の瀧などよべる急流のあるをもて思ふべし又をぐらの嶺と云は祝詞に夕日の日がくる所と云によれる名か立野は立田の東の山足に在ば朝日にむかひ夕日は嶺にかくれてをぐらくなるを文の詞にしたるより大和人のをぐらの嶺ともいひしなるべし今の立田の里にも神祠あれど祝詞によりて見ればむかしはそこにてはあるべからず龍田川も其里にある川をいへど是もしかるべからず彼大和川の立田山にそふては立田川とよびしなるべし山のもみぢ葉のこゝぞちり流て秋冬のながめは今もおもしろき所なるかのくらがり峠はいこま山をこゆるひとつの坂路なり神武紀の詞にても山路の同じからざるはあきらかなるをや

995   
  たがみそぎ  ゆふつけ鳥か  唐衣  たつたの山に  をりはへて鳴く
遠鏡
  此ノ立田山ニ誰禊ヲシテハナシテオイタ  庭鳥ヂヤカ  サキカラヒキツヾイテ久シク鳴ク
木綿付鳥の説。余材よろし。

余材
  ...みそぎとは六月祓に限らす凡はれへをするを云四境祭にこそ鶏に木綿をつけて四方の関にはなたるといへど今誰みそぎするとてゆふを付たる鳥ぞといへば常の人にもいひたれば四境の祭にはかぎらず鶏にゆふを付て放つ事の有にこそ...

996   
  忘られむ  時しのべとぞ  浜千鳥  ゆくへも知らぬ  跡をとどむる
遠鏡
  人ハドウナラウヤラ  ユクサキノシレヌモノナレバ  後ニモシ人ニ忘レラレタトキニ  コレヲ見テ思ヒダセト思フテサ  此ノ通リニモノヲカイテ  手跡ヲノコシテオキマス

997   
  神無月  時雨降りおける  ならの葉の  名におふ宮の  ふることぞこれ
遠鏡
  コレハ奈良ノ宮ノ御時代ノ古イ書デゴザリマス
又ハ  奈良ノ宮ノ御時代ニ古歌ヲ集メタト申ス集ガサ  此ノ万葉集デゴザリマス
ならの葉の名におふとは楢の葉の名につきてあるといふ意にて。すなはち奈良といふことなり。時雨にふりおけるとはめづらし。

998   
  あしたづの  ひとりおくれて  鳴く声は  雲の上まで  聞こえつがなむ
遠鏡
  世間ノ人々ハミナ立身致スニ  我レ一人オクレテ  エ立身モ致サズ歎イテヲリマスヲバ  誰レモ申上テ下サル人ハナイコトカヤ  ドウゾ此ノ様子ヲ上ヘ申シ伝ヘテ下サレカシ

999   
  人知れず  思ふ心は  春霞  たちいでて君が  目にも見えなむ
遠鏡
  人ニハイハズニ  我望ミ願フコトノアル此ノ心ハ  ドウゾ春ノ霞ノヤウニタチ出テ  上ノ御目ニモ見エルヨカシ  ソシタラ此ノ願望ノ叶フコトモアラウニ

1000   
  山川の  音にのみ聞く  ももしきを  身をはやながら  見るよしもがな
遠鏡
  御所ノ御事ハモウタヾ今デハ  音ニバカリ  ウケタマハツテヲリマシテ  ウチタエテ上リマスルコトモゴザリマセヌガ  ドウゾマヘカタ宮ヅカヘ致シテヲリマシタトホリノ身デ  今モ参ツテ見マシタイコトヂヤト存ジマスル

( 2004/02/20 )   
 
<<  1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12  13  14  15  16  17  18  19  20  >>