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       つかさとけて侍りける時よめる 平貞文  
964   
   うき世には  門させりとも  見えなくに  などか我が身の  いでがてにする
          
     
  • 門させり ・・・ 門を閉ざしている
  • いでがてに ・・・ 出ずらく
  
この浮世では、門を閉じているわけでもないのに、どうしてこの身は出ずらく思えるのか、という歌。シンプルな歌だが曖昧さがある。

  「門」を閉じているのは誰か。 「うき世門させり」ということであれば、作者であるが、「には」とあり 「見えなくに」とあるので、「誰かがうき世で門を閉じているようには見えないが」ということのようである。つまり詞書から直感される蟄居の状態を直接言ったものではないと考えられる。自分の周りの見えない門がすべて閉じているような感じを詠ったものであろう。

  "いでがてにする" (=出ずらくなっている)ということについては、思うように出世ができない、宮仕えができない、外出ができない、旅に出られない、出家できない、などが考えられるが、歌の情報だけからはどれと特定することはできない。 "我が身" が思うように行動できないということを 「つかさとけて侍りける時」の 「うき世」の状態であると詠っているものである。 「がてに」という言葉を使った歌の一覧はに 75番の歌のページを参照。

  貞文が解任されていた時期はいつであるか不明であるが、続く次の歌も同じ詞書のもとにまとめて置かれている。

 
965   
   ありはてぬ  命待つ間の  ほどばかり  うきことしげく  思はずもがな
     
        他に 「門をさす」という言葉を使っている歌としては、次の読人知らずの歌と、975番の読人知らずの「八重むぐらして 門させりてへ」という歌があり、「さす」ということだけを見れば、690番の「真木の板戸も ささず寝にけり」という歌も思い出される。

 
895   
   老いらくの  来むと知りせば  門さして   なしと答へて  あはざらましを
     
        また、この歌と同じ 「などか我が身」という言葉を使った歌としては、次の藤原敏行の歌がある。

 
903   
   老いぬとて  などか我が身を   せめきけむ  老いずは今日に  あはましものか
     
        「など/などか」という言葉を使った歌の一覧は 155番のページを参照。 "見えなくに" で使われている逆接の 「なくに」については、19番の歌のページを参照。

 
( 2001/12/11 )   
(改 2004/02/15 )   
 
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