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       みこの宮のたちはきに侍りけるを、宮づかへつかうまつらずとてとけて侍りける時によめる 宮道潔興  
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   つくばねの  木のもとごとに  立ちぞ寄る  春のみ山の  かげを恋つつ
          
     
  • 木のもと ・・・ 木の下 (このもと)
  詞書の意味は 「皇太子の帯刀(たちはき)の舎人として仕えていたが、職務怠慢として解任されていた時に詠んだ」ということ。宮道潔興(みやじのきよき)は生没年不詳、898年内舎人、900年内膳典膳、907年越前権少掾。帯刀舎人は警護の役。

  
筑波の山の木の下ごとに立ち寄っていています、春の山の蔭を恋しく思いながら、という歌。 "春のみ山のかげ" を、春宮(=皇太子)の恩恵になぞらえている。次の二つの 「ひたちうた」(常陸歌)をベースにしているようである。

 
1095   
   つくばねの    このもかのもに   かげはあれど  君が御影に  ますかげはなし
     
1096   
   つくばねの    峰のもみぢ葉   落ちつもり  知るも知らぬも  なべてかなしも
     
        つまり、歌の形としては 1095番の歌から借用し、内容としてはそれに答えるかたちの 1096番の歌が落ち葉を 「なべてかなし」(=みんないとおしい)と言っているのを "木のもと" として掬い上げているような感じである。 「宮づかへつかうまつらず」という解任の理由に対し、「怠けていたわけではありません、今でもこうして、春宮を慕いつつ、あちこちと取り成しを頼んでいるところです」という感じだろうか。あるいは 1068番の「世をいとひ 木のもとごとに 立ち寄りて」という歌からの連想では、僧侶が修行に歩く姿を模しているとも考えられる。

  潔興が帯刀の任を解かれたのがいつかははっきりしないが、その生きた時代からは 「春の御山」に譬えられている皇太子とは、893年に立太子した敦仁親王(後の醍醐天皇)か、904年に二歳で立太子した保明親王(923年に没)のどちらかと考えられる。

 
( 2001/10/30 )   
(改 2004/02/20 )   
 
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