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       題しらず 読人知らず  
934   
   幾世しも  あらじ我が身を  なぞもかく  海人の刈る藻に  思ひ乱るる
          
        そう何世代も生きるわけでもあるまいこの身なのに、どうしてこんなに、海人の刈る藻のように思い乱れるのだろう、という歌。  "あらじ" は、「あり」の感じからすると 「何世代も生きてきたわけでもなかろうに」というようにこれまでのことを表しているようにも見えるが、後半の内容からは、「これから先」と未来のことを言っていると思われる。 「じ」は打消しの推量を表す助動詞で、後ろの "我が身" に続く連体形。

  529番の 「かがり火に あらぬ我が身の なぞもかく」と比較してみると、そちらの 「あり」は 「〜である」という意味で、この歌の場合は 「存在する」という意味だが、「あら」に対して 「あら」という推量の感じがよくわかる。 「あらじ」という言葉を使った歌をまとめてみると次の通り。

 
     
11番    うぐひすの 鳴かぬかぎりは  あらじとぞ思ふ  壬生忠岑
93番    春の色の いたりいたらぬ  里はあらじ  読人知らず
133番    年の内に 春はいくかも  あらじと思へば  在原業平
419番    宿かす人も  あらじとぞ思ふ  紀有常
539番    山彦の 答へぬ山は  あらじとぞ思ふ  読人知らず
780番    年ふとも たづぬる人も  あらじと思へば  伊勢
880番    月影の いたらぬ里も  あらじと思へば  紀貫之
934番    幾世しも あらじ我が身を  なぞもかく  読人知らず
978番    春よりのちは  あらじと思へば  凡河内躬恒
1032番    春霞 かからぬ山も  あらじと思へば  読人知らず
1085番    君が代は かぎりもあらじ  長浜の  読人知らず


 
        海人の刈った藻が散乱していることに掛けて "思ひ乱るる" と言っているのは、485番の読人知らずの「かりこもの 思ひ乱れて」という恋歌や、次の読人知らずの誹諧歌にも似たような表現がある。ただ、この歌の場合、「幾世しもあらじ」と言っていることとのつながりがわかりづらい。 「幾世」という言葉からは 905番や 906番で詠われている 「住の江(住吉)の岸の姫松」が連想されるが、そこの 「海人」の刈る藻というつながりで考えてみたい気もする。

 
1052   
   まめなれど  何ぞはよけく  刈るかやの    乱れてあれど   あしけくもなし
     
        「幾世」という言葉を使った歌の一覧については 905番の歌のページを、「なぞ」という言葉を使った歌の一覧 232番の歌のページを、「思ひ乱る」という言葉を使った歌の一覧は 514番の歌のページを参照。

 
( 2001/11/26 )   
(改 2004/03/09 )   
 
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