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       月おもしろしとて凡河内の躬恒がまうできたりけるによめる 紀貫之  
880   
   かつ見れば  うとくもあるかな  月影の  いたらぬ里も  あらじと思へば
          
     
  • かつ見れば ・・・ すばらしいと見る一方で
  • うとくもあるかな ・・・ 疎遠な感じもすることだ (疎し:=親しの逆)
  
こうして見て「おもしろし」と思う一方で、親しみが持てない感じもする、この月の光がささない里もないと思うと、という歌。 "かつ見れ" という部分は、「かつ見れ」としてある伝本もあり、「ど」の方がよりその感が強いように思われる。「かつ」については本居宣長の「古今和歌集遠鏡」で横井千秋が「はじめニ句。見れどかつうとくもある哉の意にて。かつは見るとうときと一つにまじれるにおきたる詞なり。」と注をつけているように、「見れば(ど)−かつ−うとくもある」と見るとわかりやすい気がする。

  この歌の "月影" が躬恒を指しているのかどうかについては、説が分かれていて微妙である。基本的には、この月が自分(たち)だけのためにこうして美しく輝いているならいいのに、という気分を詠ったものだろうが、躬恒が女の所に行くついでに、ちょっと貫之の所に顔を出したという状況も考えられなくもなく、それをからかっているようにも見える。

  この歌と似た言葉遣いの歌としては、147番の「郭公 なが鳴く里の あまたあれば」という読人知らずの歌の他に、次のようなものがある。

 
93   
   春の色の  いたり いたらぬ    里はあらじ   咲ける咲かざる  花の見ゆらむ
     
1032   
   思へども  なほうとまれぬ  春霞   かからぬ山も  あらじと思へば  
     
        「あらじ」という言葉を使った歌の一覧は 934番の歌のページを参照。

  一方、「月影」を躬恒と見る説に添って考えると、躬恒自身も次のような歌を詠んでいて、もちろんそれが貫之に宛てたものだとは 「躬恒集」にも書いていないが、春と秋とのキャッチボールと見ても面白いかもしれない。

 
67   
   我が宿の  花見がてらに  くる人は  散りなむのちぞ  恋しかるべき
     

( 2001/11/27 )   
(改 2004/02/23 )   
 
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