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       さくらをうゑてありけるに、やうやく花咲きぬべき時に、かのうゑける人身まかりにければ、その花を見てよめる 紀茂行  
850   
   花よりも  人こそあだに  なりにけれ  いづれを先に  恋ひむとか見し
          
     
  • あだに ・・・ はかなく (徒)
  詞書の意味は 「桜を植えておいて、ようやくその桜が咲く頃になったが、その植えた人が亡くなってしまったので、その花を見て詠んだ」歌ということ。歌の意味は、
花よりも先に人が、はかなくこの世から居なくなってしまった、どちらを先に惜しもうかなどとは考えもしなかった、ということ。一緒に花を惜しむはずが、花が散る前にあの人を失うとは、という感じである。

  紀茂行(もちゆき)は紀貫之の父。生没年不詳。古今和歌集にあるのはこの一首のみである。撰者の一人である貫之が唯一許した父の歌と言ってよいだろう。どこか、春歌上の 49番に「人の家にうゑたりけるさくらの、花咲きはじめたりけるを見てよめる」という詞書のある貫之の「今年より 春知りそむる 桜花」の歌を思い出させる。この歌と似た口調の歌としては、桜の花が水に散る姿を詠んだ次の菅野高世の歌がある。

 
81   
   枝よりも    あだに散りにし   花なれば  落ちても水の  泡とこそなれ
     
        また、 "恋ひむとか見し" の「とか」は次の読人知らずの歌でも同じように使われているが、464番の読人知らずの物名の歌のように 「憂しとかは思ふ」と 「は」が入って 「か」の疑問形を強調した方が歌が落ち着く場合もある。

 
551   
   奥山の  菅の根しのぎ  降る雪の  けぬとか言はむ   恋のしげきに
     
        「あだ」という言葉を使った歌の一覧は 62番の歌のページを参照。

 
( 2001/10/24 )   
(改 2004/02/24 )   
 
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