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       藤原のたかつねの朝臣の身まかりてのまたの年の夏、ほととぎすの鳴きけるを聞きてよめる 紀貫之  
849   
   郭公  今朝鳴く声に  おどろけば  君に別れし  時にぞありける
          
        詞書は 「藤原高経が亡くなった翌年の夏、ホトトギスが鳴くのを聞いて詠んだ」歌ということ。

  藤原高経(たかつね)は藤原長良の子で、893年五月に没し、当時は正四位下。 638番の「明けぬとて いまはの心 つくからに」という恋歌三の歌は、その兄の国経のものであり、高子(=二条の后)や良房の養子になった基経も高経の兄弟である。同じ貫之の 390番の離別歌の詞書に出てくる「藤原のこれをか(惟岳)」は高経の子であり、次の二つの歌が古今和歌集に採られている兵衛(ひょうえ)は高経の娘。

 
455   
   あぢきなし  なげきなつめそ  うきことに  あひくる身をば  捨てぬものから
     
789   
   死出の山  麓を見てぞ  かへりにし  つらき人より  まづ越えじとて
     
        歌の意味は、ホトトギスが鋭く鳴く声にはっと気づけば、あなたが亡くなった時であった、ということ。遠くで人が亡くなったまさにその時に時計や電話のベルが鳴るなどの話はよく聞くが、ここではもう少し時の流れがゆるやかで、亡くなった次の年の夏のことである。

  五月という幅で見るとあまりにも広すぎるので、これは高経が亡くなった五月十五日のことであると思われる。一回忌にあたって、その朝に詠んだものであろう。一周忌の歌としては 846番の文屋康秀の歌が思い出される。また、同じ哀傷歌の中でホトトギスを詠っている歌としては次の読人知らずの歌がある。

 
855   
   なき人の  宿にかよはば  郭公   かけて音にのみ  なくとつげなむ
     
        「〜にぞありける」という表現を使った歌の一覧は 204番の歌のページを参照。

 
( 2001/11/28 )   
(改 2004/02/03 )   
 
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