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       題しらず 小野小町  
797   
   色見えで  うつろふものは  世の中の  人の心の  花にぞありける
          
        色にはっきりとは見えずにうつろうものは、世の中の人の心の花だったのですね、という歌。

  795番の読人知らずの歌が「世の中の人の心は−花染めのうつろひやすき色」と言っているのに対し、この歌では、花や葉は色に見えて 「うつろひ」がわかるけれど、「わからないものは−世の中の人の心の花」という言い方をしている。 「世の中の人の心」というフレーズを使った歌の一覧については 795番の歌のページを参照。

  「人の心の花」とは 「恋心」と見てよいだろう。前に "色見えで" とあるので、この歌の 「うつろふ」は 「散る」ということを指しているように思えるが、どちらかというと枯れる方向に変ってゆくという感じのようでもある。 「うつろふ」という言葉を使った歌の一覧については 45番の歌のページを参照。

  なお、この "色見えで"  には、
「古今和歌集全評釈  補訂版 」 (1987 竹岡正夫 右文書院 ISBN 4-8421-9605-X) や「古今和歌集全評釈(中)」 (1998 片桐洋一  講談社 ISBN4-06-205980-0) でも触れられている通り、 792番の 「水の泡の消えて」が 「て」か 「で」か、と同じように 「色見え」か、という説がかつて存在し、それを契沖が「古今余材抄」の中で「...発句のてもしすむ説あれと心の花誰か其色を見し歌はさのみよむ事なれと濁るはすなほ也」と否定しいる。

  そして契沖はこの歌のの二句目までを「
花といふ花はうつろふ色みえてこそうつる物なるをたゝ世の人の心の花のみうつろふ中色も見えすしてうつり行とよめり」と訳しているのだが、それに対し本居宣長は「古今和歌集遠鏡」の中で 「草ヤ木ノ花ハ 色ガアルユヱニウツロウヂヤガ 色ハアルトモ見エズニ ウツリカハルモノハ」と訳し、「色見えでは。色のなきをいふ也。余材初ニ句の注わろし。」と噛み付いている。

  上記の契沖の言葉にも「
心の花誰か其色を見し」とあり、宣長が「わろし」と否定するほどの違いはわからない。契沖、宣長どちらも 729番の 「色もなき 心を人に 染めしより」という貫之の歌を念頭に置いているものと思われる。

  また、打消しの接続助詞「で」は 「ず+て」が一つになったものと言われている。 「見えで−見えずて」と考えると、217番の「鳴く鹿の 目には見えずて 音のさやけさ」という読人知らずの歌が思い出される。

  ちなみに 792番の 「水の泡の消えて」が 「て」か 「で」かという問題に関しては、契沖・宣長の時代にはまだ 「消えで」という説がまだ無かったか、一般的ではなかったものと見え、契沖は「余材抄」でそのことに触れておらず、宣長は「
水ノ沫ノキエルヤウニ」と 「消えて」のままで通している。

  「〜にぞありける」という表現を使った歌の一覧は 204番の歌のページを参照。

 
( 2001/11/15 )   
(改 2004/03/10 )   
 
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