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       堀川のおほいまうちぎみの四十の賀、九条の家にてしける時によめる 在原業平  
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   桜花  散りかひくもれ  老いらくの  来むと言ふなる  道まがふがに
          
     
  • 老いらく ・・・ 老い
  詞書にある「堀川のおほいまうちぎみ」とは藤原基経(836-891)のことで、その四十の賀は 875年(貞観十七年)。当時、業平は従四位下で五十一歳。古今和歌集の伝本の中には、この歌を業平の兄の在原行平の歌とするものも多い。行平は当時、従三位で五十八歳。いずれの作にしろ、十歳以上年長の下位の者からの歌である。

  
桜花よ、散り交い曇れ、老いというものが来るという、その道がわからなくなるほどに、という歌。

  最後の 「がに」は、
「例解 古語辞典 第三版」 (1993 三省堂 ISBN4-385-13327-1) で述べられているように、829番の小野篁の「水まさりなば かへりくるがに」という歌と並べてみると、「(そうすれば)〜するだろうに」という意味のようにもとれる。 「がに」を使った歌の一覧は 1076番の歌のページを参照。

  賀歌としては異色とされるが、確かにもってまわった言い方で、72番の読人知らずの「散りのまがひに 家路忘れて」という桜の歌の延長のようでもある。古今和歌集の中には895番の「老いらくの 
来むと知りせば 門さして」というような歌も採られており、それを前提としたものとも考えられるが、ダークなイメージで取れば、桜吹雪の向こうに死神を見るような感じもする。散る桜に曇る景色は、風に舞い散る火の粉と煙に代わり、その中で迷う姿は 「老い」ではなく宮中の人々である。 874年4月19日淳和院で火災、875年1月28日冷然院より出火、一年後の 876年4月10日には大極殿の焼失。清和天皇は疲れきり、責任の矛先は時の権力者である基経に向かう。

  「伊勢物語」の第百一段では、藤を藤原氏に掛けてその象徴としているが、古今和歌集で言えば、この歌も含め、藤原氏の繁栄の象徴は桜であるように見える。

 
52   
   年ふれば  よはひは老いぬ  しかはあれど  花をし見れば    物思ひもなし  
     
        「染殿のきさきのおまへに花がめにさくらの花をささせ給へるを見てよめる」と詞書のあるこの藤原良房の歌は、娘の明子が文徳天皇との間に男子をもうけ、その惟仁親王(後の清和天皇)を生後八ヶ月で皇太子とした頃のものとされている。また、惟仁親王の誕生の三年後の 853年2月には、良房の御殿である染殿に文徳天皇を迎えて観桜を行なっている。ちなみに良房には男子がなく、兄の長良の子である基経を養子にした。二条の后(藤原高子)は長良の娘で、基経の妹である。

  偶然であろうが、古今和歌集ではこの良房の後に続けて次の有名な業平の歌が置かれている。

 
53   
   世の中に  絶えて桜の    なかりせば   春の心は のどけからまし
     
        その歌の 「絶えて」という言葉はこの歌の "散りかひくもれ" にもつながるような感じもする。もちろん基経にはこの型破りな賀歌を楽しむ余裕とセンスはあったであろう。問題児となる陽成天皇の即位はまだもう少し先のこと(877年(貞観十九年)一月)である。

 
( 2001/11/01 )   
(改 2004/02/22 )   
 
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