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       いもうとの身まかりける時よみける 小野篁  
829   
   泣く涙  雨と降らなむ  わたり川  水まさりなば  かへりくるがに
          
        泣く涙は雨と降って欲しい、それで「渡り川」の水が増されば帰ってくるだろうに、という歌。

  小野篁(たかむら)は 802年生れ、852年没で没年五十一歳。 821年に二十歳で文章生となり、828年大内記、832年従五位下、834年に遣唐副使となった。この時の遣唐使派遣は二度に渡って渡航に失敗し、その間、篁は、835年に従五位上、836年に正五位下と位が上がっている。しかし三度目の838年、破損した遣唐大使の藤原常嗣の船を篁の船と交換せよという命令に不服を申し立て、それが受け入れられないと乗船を拒否したため、官位を止められ隠岐に流された。この時三十七歳。結局、篁抜きで行なわれたこの三度目の渡航は成功し、常嗣や僧円仁らが入唐を果たした。 894年には菅原道真により遣唐使が廃止されるので、この時が最後の遣唐使派遣となった。

  篁は隠岐に流された約二年後の 840年召還されるが、これは藤原常嗣が 839年八月に無事帰国したことと関係があると思われる。841年には正五位下に戻り、845年には従四位下で蔵人頭、847年には参議、850年には従四位上、正四位下、亡くなる 852年には従三位までいった。

  古今和歌集にはこの歌を含めて六首が採られており、参議篁として百人一首にも採られている次の歌は有名である。

 
407   
   わたの原  八十島かけて  こぎいでぬと  人には告げよ  海人の釣り舟
     
        また、篁は 「小野」の 「野」の字をとって野相公、野宰相とも呼ばれ、真名序では在原行平(818-893)と共に歌の心のある人として扱われている。

 
     
昔、平城の天子、侍臣(じしん)に詔(みことのり)して万葉集を撰ば令(し)む。自爾来(それよりこのかた)、時は十代を歴(へ)、数は百年を過ぐ。其の後、和歌は弃(す)てて採被(とられ)ず。風流、野宰相の如く、軽情、在納言の如しと雖(いへど)も、而(しかう)して皆、他の才を以(も)ちて聞え、斯(こ)の道を以(も)ちて顕(あらは)れず。

(昔、平城の天子は侍臣に命じて万葉集を撰ばさせた。それから天皇十代、年にして百年が過ぎた。その間、和歌は棄てられて表立って取り上げられることはなかった。風流なことでは野宰相(小野篁)のごとく、軽情なことでは在納言(在原行平)のごとき人は存在したものの、皆ほかの才能で名が知られる人たちであり、和歌に特化して有名というわけではなかった。)


 
        この部分は古今和歌集がいかに万葉集以後打ち棄てられていた和歌を復興させたかという文脈で書かれているので、篁と行平が付け合せられていのは、篁が隠岐へ流され、行平が須磨に引きこもったというイメージを和歌が不振な時代を表わすことに利用しているとも考えられるが、行平はともかく篁の 「他の才」とは主に漢詩文を指す。遣唐使を批判した 「西道謠(さいどうよう)」、隠岐へ流される途中での 「謫行吟(たつこうぎん)」は名前だけが残り今では失われているが、現在目にしやすいものとしては和漢朗詠集に篁の詩の十一の断片を見ることができる。

  さて、この歌の "わたり川" とはここではいわゆる三途の川を指し、涙が雨と降って増水すれば渡れずにこの世に戻ってくるのではないかという意味で、今にも目を開けそうな遺体を前にして詠っているかのような臨場感がある。あまりの悲しさで涙が出ない自分を叱咤しているようにも見える。 
「がに」という言葉を使った歌の一覧は 1076番の歌のページを参照。

  川と 「まさる」を合わせた歌には、次の恋歌五の読人知らずの歌がある。

 
760   
   あひ見ねば  恋こそ まされ    みなせ川   何に深めて  思ひそめけむ
     
        詞書にある 「いもうと」という言葉は、男から見て年の上下に関係なく女のきょうだいを指すものだが、この篁の歌では昔から 「妹」であるとされている。これに対して、次の忠岑の歌はやはり川のイメージを使った哀傷歌の詞書には 「あねの身まかりにける時によめる」とあり、「あね」は 「姉」であるらしい。

 
836   
   瀬をせけば  淵となりても  淀みけり  別れを止むる  しがらみぞなき
     

( 2001/11/14 )   
(改 2004/02/22 )   
 
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