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       寛平の御時きさいの宮の歌合せのうた 大江千里  
155   
   宿りせし  花橘も  枯れなくに  など郭公  声絶えぬらむ
          
     
  • など ・・・ なぜ
  
泊まっていたタチバナの花がまだ枯れてもいないのに何故ホトトギスの声が聞こえなくなったのか、という歌で141番の「花橘に  宿はからなむ」という歌の延長上にある。

  この歌の夏歌の中での位置について、賀茂真淵「古今和歌集打聴」では「
上下の歌の次序(ついで)によるに末に声の絶ぬるにあらず鳴べき時に絶てなかぬ也」(=前後の歌の配列からすると、これは時期が過ぎてとうとうホトトギスの声が聞こえなくなったということではなく、まだ鳴くべき時期なのにさっぱり声が聞こえなくなったということである)と述べている。確かに "花橘 枯れなくに"
という部分からは、そのような感じも受ける。 「〜なくに」という言葉を使った歌の一覧は 19番の歌のページを参照。

  歌の順から言えば、先に 151番の「今さらに  山へかへるな  郭公」という歌も出ているが、それについても真淵は「
山へ帰りてまたこぬ時ならず常に山よりゆきかへりつゝするを一たび出て更にかへらんよりはたゞ我やどに鳴てのみあれと云也仍て(よって)今更といへり」(=これはホトトギスが山へ帰ってもう来なくなる時の歌ではない。山と里とを往復するのを、一回帰ってわざわざまた来るよりは我が宿にずっと留まって鳴けということである。よって今更といっているのである。)と解釈している。ただこちらは 「声のかぎりは  我が宿に鳴け」というニュアンスとずれているような気がし、無理があるように見える。

  "宿りせし" ではじまる他の歌としては、240番に貫之の「宿りせし 人の形見か 藤ばかま」という歌がある。また、「など」は 「などか」というかたちで使われることも多く、古今和歌集の中では次のような歌で使われている。

 
     
155番    など郭公  声絶えぬらむ  大江千里
493番    など我が恋の  淵瀬ともなき  読人知らず
547番    などか心に  忘れしもせむ  読人知らず
549番    などか穂にいでて  恋ひずしもあらむ  読人知らず
638番    など言ひ知らぬ  思ひそふらむ  藤原国経
805番    などか涙の  いとなかるらむ  読人知らず
860番    露をなど  あだなるものと 思ひけむ  藤原惟幹
903番    などか我が身を  せめきけむ  藤原敏行
964番    などか我が身の  いでがてにする  平貞文


 
        似たような言葉に 「なぞ(何ぞ)/なにぞ」というものもあり、その一覧については 232番のページを参照。

 
( 2001/10/29 )   
(改 2004/01/12 )   
 
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