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       法皇、西川におはしましたりける日、猿山のかひに叫ぶといふことを題にてよませたまうける 凡河内躬恒  
1067   
   わびしらに  ましらな鳴きそ  あしひきの  山のかひある  今日にやはあらぬ
          
     
  • ましら ・・・ 猿
  詞書の 「法皇、西川におはしましたりける日」とは、宇多上皇が大井川へ御幸を行なった 907年九月十日。翌九月十一日には醍醐天皇も行幸した。宇多上皇の御幸の日には、詩会・歌会が催され、この歌はその時のものである。同じ時の歌として、雑歌上に次の貫之の歌がある。

 
919   
   あしたづの  立てる川辺を  吹く風に  寄せてかへらぬ  浪かとぞ見る
     
        907年と言えば、仮名序・真名序に記載されている、古今和歌集が作成されたといわれる年(905年四月)の二年後にあたり、このズレは、少なくとも 905年にはまだ現在の古今和歌集のかたちが完結していなかったことを示しているが、逆に 907年のこの大井川行幸(御幸)の時点では、歌人たちの頭の中にはすでに古今和歌集という存在が意識されていただろう、ということもわかる。

  
わびしそうに猿よ、鳴くな、今日こそは 「かい」のある日ではないか、という歌。躬恒のこの歌は、
"わびしら"と "ましら" と音を重ね、「山の峡(かい)」と 「〜しがいがある」という意味の 「効(かい)」を掛けて、「猿叫峡」という漢詩的な題からくる寂寥感を、先頭の "わびしら" で押さえながら、最後でうまく 「御幸」の喜びを入れて全体としては泣き笑いのような感じに仕立てている。

  "わびしらに" という言葉は、451番の在原滋春の「にがたけ」の物名の歌でも「ものわびしらに 鳴く野辺の虫」と使われている。 「わぶ」という言葉を使った歌については 937番の歌のページを参照。また、この歌の "今日にやはあらぬ" という結びを見ると、846番の文屋康秀の「照る日の暮れし 今日にやはあらぬ」という哀傷歌のパロディのようにも思われる。 「やは」を使った歌の一覧は 106番の歌のページを参照。

  なお、この大井川行幸の際の歌会では、詩会の流れから九つの題があった。「古今著聞集」に残る貫之の大井川行幸和歌の仮名序と付け合せて、それを列挙すると次のようになる。(三文字の漢文題は
「論集  和歌とは何か」 和歌文学会編 笠間書院 1984 に収録の 後藤昭雄 「漢詩文と和歌−延喜七年大井川御幸詩について−」  による)

 
     
  秋の水に浮ぶ   泛秋水   秋の水に浮かびては、流るる木の葉とあやまたれ
  秋山のぞむ   望秋山   秋の山をみれば、をりてひまなき錦と思ほえ
  紅葉落つ   紅葉落   もみぢの葉のあらしにちりて、もらぬ雨ときこえ
  菊の花残れり   菊花残   菊の花の岸にのこれるを、空なる星とおどろき
  鶴洲に立てり   鶴立洲   霜の鶴河辺に立ちて、雲のおるかとうたがはれ
  猿峡に叫ぶ   猿啼峡   夕の猿山の峡に鳴きて、人の涙を落とし
  旅の雁行く   旅雁行   旅の雁雲ぢにまどひ、玉づさと見え
  鴎人に馴れたり   鴎馴人   遊ぶ鴎水にすみて、人になれたり
  江の松老いたり   江松老   入江の松、いく世へぬらむ


 
        ではこれらの題から生まれた歌はどのようなものであったのか。つまりどのような母体から躬恒と貫之の歌は古今和歌集に採取されたのか。私家集などで現在に残っているものを上げてみる。


 
  秋の水に浮ぶ  
 
 
 紀貫之  新拾遺1670  波の上を  漕ぎつつゆけば  山近み  嵐に散れる  木の葉とや見む
 凡河内躬恒  躬恒集  この河に  木の葉と浮きて  さしかへり  身は今日よりぞ  見馴れそめぬる
 凡河内躬恒  躬恒集  秋の波  いたくな立ちそ  思ほえず  浮き木にのりて  ゆく人のため
 壬生忠岑  忠岑集  秋深く  浮かべる水の  深ければ  山をよきてや  底を見るらむ
 坂上是則  是則集  いづかたか  泊まりなるらむ  山風の  払ふもみぢに  舟まどひして
 大中臣頼基  頼基集  いろいろに  うける心も  秋の水  もみぢ流すと  人や見るらむ

 


  秋山のぞむ  
 
 
 凡河内躬恒  躬恒集  今日なれば  小倉の山の  もみぢ葉は  夜さへ照りて  見え渡るらむ
 凡河内躬恒  躬恒集  秋霧の  晴るる間に間に  見渡せば  山の錦は  織りはてにけり
 壬生忠岑  忠岑集  秋山の  もみぢ見し間に  日暮れては  竜田姫にや  宿はかるらむ
 坂上是則  続後拾遺386  秋の色は  ちぐさながらに  さやけきを  誰か小倉の  山と言ふらむ
 大中臣頼基  頼基集  白露は わきて置かじを  秋の山  などかもみぢも  薄く濃からむ

 


  紅葉落つ  
 
 
 凡河内躬恒  躬恒集  庭の面の  唐紅に  なるまでに  秋にあへかね  落つるもみぢか
 壬生忠岑  忠岑集  いろいろの  木の葉落ち積む  山里は  錦にとめる  なき名立つらむ
 坂上是則  続後撰472  もみぢ葉の  落ちて流るる   大井川  瀬ぜのしがらみ  かけも止めなむ
 大中臣頼基  頼基集  もみぢ葉の  流れうづまく  淵をこそ  暮れゆく秋の  泊りとは見め

 


  菊の花残れり  
 
 
 凡河内躬恒  躬恒集  菊の花  今日を待つとて  昨日置きし  露さへ消えず  枝の盛りなり
 凡河内躬恒  躬恒集  君がため  心もしるく  初霜の  置きて残せる  菊にぞありける
 壬生忠岑  忠岑集  霜わけて  咲くべき花も  なきものを  色を残して  人をたのむる
 坂上是則  新古今623  影さへに  今はと菊の  うつろふは  波の底にも  霜や置くらむ
 大中臣頼基  頼基集  御幸をば  今日とやかねて  菊の花  昨日の色の  あせて残れる

 


  鶴洲に立てり  
 
 
 紀貫之  古今919  あしたづの  たてる河辺を  吹く風に  よせてかへらぬ  浪かとぞ見る
 凡河内躬恒  躬恒集  鶴のゐる  かたにぞあける  白妙の  あまの濡れ衣  ほすと見つるは
 凡河内躬恒  躬恒集  うらわきて  風や吹くらむ  沖つ波  同じ所に  立ち返りつつ
 壬生忠岑  忠岑集  まな鶴の  たちゐならせる  潟の洲に  千歳のあとを  残さざらめや
 坂上是則  新千載1644  山高み  降りゐる雲と  まな鶴の  立てる川辺を  人や見るらむ
 大中臣頼基  頼基集  川近み  住まひすればや  まな鶴の  なかれて千歳  ありといはるる

 


  猿峡に叫ぶ  
 
 
 凡河内躬恒  古今1067  わびしらに  ましらな鳴きそ  あしひきの  山のかひある  今日にやはあらぬ
 凡河内躬恒  躬恒集  心あらば  三度二度  鳴く声を  いとどわびたる  人に聞かすな
 坂上是則  新撰朗詠425  秋山の  かひにみかへり  鳴く声を  夜深く聞きて  袖ぞぬれぬる

 


  旅の雁行く  
 
 
 凡河内躬恒  躬恒集  ふるさとを  思やりつつ  行く雁の  旅の心は  空にぞあるらむ
 凡河内躬恒  躬恒集  年ごとに  友ひきつらね  来る雁を  いくたび来ぬと  問ふ人ぞなき
 壬生忠岑  忠岑集  昔より  春立ち返り  秋は来ぬ  いづらを雁の  旅とかは見む
 坂上是則  新拾遺496  いく千里  ある道なれや  秋ごとに  雲ゐを旅と  雁の鳴くらむ
 大中臣頼基  頼基集  すむ里の  定めなければ  旅の雁  空にぞうきて  鳴きわたるなる

 



  鴎人に慣れたり  
 
 
 凡河内躬恒  躬恒集  馴れ来らし  沖の鴎は  つげなくに  後の心を  いかで知りけむ
 凡河内躬恒  躬恒集  洲にをれば  いさごのうらに  まがふ鳥  手にとるばかり  馴れにけるかな
 壬生忠岑  忠岑集  白波の  越せどもたえず  群れゐつつ  人になつかむ  見馴れたる鳥
 坂上是則  是則集  行く舟に  なるる鴎は  さす棹に  かへす水こそ  あやまたれけれ
 大中臣頼基  頼基集  白波や  身によせかかると  思ほはで  たちも騒がず  馴るる鳥かな

 


  江の松老いたり  
 
 
 紀貫之  拾遺455  大井川  河辺の松に  こと問はむ  かかる御幸や  ありし昔も
 凡河内躬恒  玉葉2190  深みどり  入江の松も  年ふれば  影さへともに  老いにけるかな
 凡河内躬恒  躬恒集  老いにける  松ぞ知るらむ  あゆ河の  御幸もかくは  あらざりけらし
 壬生忠岑  忠岑集  年深く  ねざし入江の  松なれば  老いのつもりは  波や知るらむ
 坂上是則  続古今1662  この川の  入江の松は  老いにけり  古き御幸の  ことや問はまし
 大中臣頼基  頼基集  江に深く  年ふる松は  水底の  影にさへこそ  色は見えけれ
 藤原伊衡  続古今1661  江に深く  年は経にける  松なれど  かかる御幸は  今日や見るらむ

 


        これらの歌群の中で、この躬恒の 「わびしら」の歌を見ると、 "今日にやはあらぬ" という言葉の雰囲気がわかるような気がする。

  躬恒の歌は、何らかの形ですべての題についての歌が残っているのに対し、貫之の歌は、自ら許せるものが少なかったのか、九つの題のうち三つしか歌が残っていない。古今和歌集および後世の和歌集に拾われている数からすると、貫之は三首中三つ、躬恒は十七首中二つ、忠岑は八首中ゼロである。一方、坂上是則の歌は古今和歌集には採られていないものの、九首中七つが後世の和歌集に採られており、その点では忠岑の面目はまるつぶれである。

  ただし、忠岑の歌として、拾遺和歌集・巻三212に「大井に紅葉の流るゝを見はべりて」という詞書のついた「いろいろの  木の葉流るゝ  大井河  しもは桂の紅葉とや見ん」という歌があり、それは「紅葉落」の題の「いろいろの 木の葉落ち積む 山里は」という歌と出だしの部分が同じである。

  また、「忠岑集」には貫之の序とは別に、この大井川行幸の際の歌に対する忠岑の序とされるものが存在し、その中に「声ありて聞こゆる題は、九つのその心おなじからず。みなおのおの数かぞへて」というくだりがある。単なる修辞表現かもしれないが、「みなおのおの数かぞへて」とは、その場で文字数を指折り数えて考えているような情景が思い浮かばれる。

  もう一人の古今和歌集の撰者である友則は、この時すでに亡くなっていたのか、これらの中に名前を連ねていないのが寂しいところである。

  ちなみにこの躬恒の 「わびしら」の歌について、賀茂真淵は「古今和歌集打聴」の中で、「...
さて此歌を何とて俳諧に入れたるにや心詞ともにたはれたる所なく実にめでたき歌也是ほどの歌は此集中にも多く侍らざるものを」と誉めている。おそらく真淵はこの歌の中に躬恒の才のきらめきを見たのであろう。

 
( 2001/10/22 )   
(改 2004/03/16 )   
 
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