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       題しらず 壬生忠岑  
625   
   有明の  つれなく見えし  別れより  暁ばかり  憂きものはなし
          
     
  • 有明 ・・・ 陰暦の二十日過ぎに月が夜更けに出て夜明けまで残ること
  • 暁 ・・・ 夜が明ける前のまだ暗い時間帯のこと(曙の前)
  
有明の月の出ていたあの時、つれなく別れたあの時から、暁ほど心を苦しめるものはない、という歌。言い放ち方に勢いのある、印象に残る歌である。この歌は百人一首にも採られていて有名だが、 "つれなく見えし 別れ" がどのような別れを指すかという点について古来から議論がある。
今それを、

  
「古今和歌集全評釈  補訂版 」 (1987 竹岡正夫 右文書院 ISBN 4-8421-9605-X)
  
「古今和歌集全評釈(中)」 (1998 片桐洋一 講談社 ISBN4-06-205980-0) 

  に紹介されているものなどを参考にまとめると次のようになる。

  (A) 逢えずに帰ってきたものである
        (「両度聞書」 「古今余材抄」 「古今余材抄」 「古今和歌集打聴」など)
  •  "つれなく見えし" とは逢ってくれなかったという意味も含んでいる
  • 古今和歌集の配列(恋歌三)からして、ここはまだ不逢帰恋の流れである
  • 忠岑は撰者の一人であるからその流れを認めていたはず (金子元臣「古今和歌集評釈」)
  • 「古今六帖」にもこの歌は「来れどあはず」のところに置かれている
  • 此歌はあはすして明たる歌ともの中にはさまれて侍り六帖にも来れとあはすといふ題の所にこの歌を出せりつれなく見えしの心は顕注のことく月の貌の明るもしらぬ心にしてそれにあはすしてかへす人のつれなき体を相兼てよめる歌なるへし (「古今余材抄」)
  • 有明月はあくるもしらでつれなく見えしにあはずしてかへす人のつれなきをかねたり (「古今和歌集打聴」)
  (B) 逢ってから帰ってきたものである
        (「顕註密勘」 「古今和歌集遠鏡」)
  •  "つれなく見えし" とは帰りたくないのにという意味を込めている
  • つまり、夜が明けたのに帰らず出ている有明の月を言ったものである
  • 余材。上句を。あはずしてかへる意とせるは。歌の入りどころになづめるひがこと也。顕注の如く。逢ひてわかれたる也。然るをこゝに入れたるは。ふとところをあやまれるなり。六帖もこの集によりてあやまれり。 (「古今和歌集遠鏡」)
  ちなみに上記の「古今和歌集全評釈  補訂版 」「古今和歌集全評釈(中)」 は共に(A)の解釈をとっている。逢う前のことを「別れ」と言うかどうかには疑問があるが、いずれにしても相手がつれなかった、という状況は同じである。

  また上記にも出ているが、「有明」と 「つれなく見えし」のつなぎについては、一般的には 「夜が明けると自分は(あきらめて)帰らなければならないのに有明の月は残っている」から 「つれなく見えし」と言っているのだと解釈されている。確かにそういうことなのだろうが、ここではフラれた時に有明の月があった、という情景のままでとっておきたい気がする。

  なお、「有明」という言葉を使った他の歌には 332番の坂上是則の歌と 691番の素性法師の歌がある。 「つれなし」という言葉を使った歌の一覧については 486番の歌のページを参照。

  藤原定家は 「顕註密勘」で自分の意見として、この忠岑の歌について 「これほどの歌ひとつよみいでたらむ、この世の思ひ出に侍るべし  (これほどの歌を一つひねり出したなら、この世にいた思い出になるだろう)」と絶賛し、八代集からそれぞれ十首づつ選んで編んだ 「八代集秀逸」の中の一つとしてこの歌を選んでいる。その他の九首については 365番の歌のページを参照。

  次の読人知らずの歌もこの歌と並べて見ておきたい。

 
641   
   郭公  夢かうつつか  朝露の  おきて別れし  暁の声  
     

( 2001/12/18 )   
(改 2004/02/11 )   
 
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