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       大和の国にまかれりける時に、雪の降りけるを見てよめる 坂上是則  
332   
   朝ぼらけ  有明の月と  見るまでに  吉野の里に  降れる白雪
          
     
  • 朝ぼらけ ・・・ 夜明け
  • 有明の月 ・・・ 陰暦の二十日過ぎに夜が明けても出ている月
  
明け方の有明の月と見まがうばかりの吉野の里に降っている白雪、という歌で百人一首にも採られている。一般的には、有明の月[の明るさ]と見まがうばかりに降り[敷いている]雪、と解釈される。あたりが白々とほのかに明るいことを詠んでいるもので、「吉野の里」という冬のブランドが付いているために、寒さの感じまで同梱されているように思われる。

  "降れる" は、四段活用の 「降る」の命令形+助動詞「り」の連体形で、この 「り」は完了も継続も表わすが、この場合は一面に雪があり、かつ今も降っているという 「継続」を表すものと見た方が自然であろう。他の歌で "降れる白雪" という言葉が使われているを見ると、318番の読人知らずの「薄おしなみ  降れる白雪」、460番の貫之の「鏡のかげに 降れる白雪」の二つの歌があり、どちらも同じように 「降る+積もる」を表していると考えられる。

  雪が降れば積もるのは当然なので、何もこだわる必要はないようだが、続く 333番の歌などのように 「降りしく」という言葉が出てきた場合、今度はそれが 「降り敷く」なのか 「降り頻く」(=絶え間なく降る)なのか、という似たような問題もあるので、よりシンプルな 「降れる白雪」を考えておくことも無駄ではないだろう。また、雪が降れば積もるという当然さの逆を行って、積もりきれない 「淡雪」を使った次のような歌もある。

 
550   
   淡雪の   たまればかてに  くだけつつ   我が物思ひの  しげきころかな
     
        また、「有明」はそれ自体で 「有明の月がある状態」を指し、625番の忠岑の「有明の つれなく見えし 別れより」という歌が有名であるが、 "有明の月" という言葉を持つ他の歌としては、恋歌四に次の素性法師の歌がある。

 
691   
   今こむと  言ひしばかりに  長月の  有明の月を   待ちいでつるかな
     
        この素性の歌を見ると 「有明の」は実際の 「月」であるが、「朝ぼらけ」の是則の歌では「月」はそれ自体ではなく 「月光」である。 "降れる白雪" と同じで、そんなことは言われなくても当然のことだ、と思われるかもしれないが、やはりしっかりおさえておいた方がよいように思われる。雪の白さを月の光の白さと見まがうというこの歌は、すぐ後に出てくる雪の白さと梅の白さを見まがうという 334番の歌などにつながってくるからである。

  ちなみにこの歌は、藤原定家が八代集からそれぞれ十首づつ選んで編んだ「八代集秀逸」の中で選ばれているものの一つである。その他の九首については 365番の歌のページを参照。

 
( 2001/11/21 )   
(改 2004/02/11 )   
 
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