Top  > 古今和歌集の部屋  > 巻八

       志賀の山越えにて、石井のもとにてものいひける人の別れけるをりによめる 紀貫之  
404   
   むすぶ手の  しづくに濁る  山の井の  あかでも人に  別れぬるかな
          
     
  • むすぶ ・・・ すくう (掬う)
  • 山の井 ・・・ 山の井戸・水汲み場
  • あかでも ・・・ 心ゆくまで〜できずに (飽きるとは程遠い状態なのに)
  
手から落ちたしずくで濁るほど浅い山の井の水が存分に飲めないように、ゆっくりと話もできず、心残りがあるままに別れてしまった、という意味。 "あかでも" には仏教でいう 「仏に供える水」=アカが掛けられているとされる。

  どちらかというと地味な歌で、水の濁りや、喉の渇きに "あかでも" と合わせているところは考えようによっては露骨な感じもするが、藤原俊成の「古来風躰抄」に「
この歌、「むすぶての」とおけるより、「しづくにゝごる山のゐの」といひて「あかでも」などいへる、おほかた、すべてことば、ことのつゞき、すがた・こゝろ、かぎりもなきうたなるべし。歌の本たいは、たゞこの歌なるべし」( 「古今和歌集全評釈(中)」 (1998 片桐洋一  講談社 ISBN4-06-205980-0) より引用)と絶賛されているように古くから名歌として親しまれているようである。

  確かにそう言われれば、はじめの三句は序詞でありながら、ゆるみがなく身がしまっている鶏肉のような感じもする。 "むすぶ手
"/"山の井" という部分のつなぎはなめらかであり、全体が一振りの鞭のようにしなやかであるとも言える。 「あかで」という言葉を使った歌の一覧は 157番の歌のページを参照。

  「山の井」の歌としてまず思い出されるのは、古今和歌集の仮名序に 「歌の母」として引かれている次の歌の采女(うねめ)の歌である。

    安積山  かげさへ見ゆる  山の井の  浅くは人を  思ふものかは

  古今和歌集にはそこから展開されたと思われる次のような読人知らずの歌もあるが、それがそのまま「浅き心」を引き継いでいるのに対し、この貫之の歌ではそれを「浅き縁」に転化しているのが見どころである。

 
764   
   山の井の    浅き心も   思はぬに  影ばかりのみ  人の見ゆらむ
     
        また、貫之の志賀の山越えの歌としては、次のような歌もある。

 
115   
   梓弓  はるの山辺を  越えくれば  道もさりあへず  花ぞ散りける
     

( 2001/05/03 )   
(改 2004/02/11 )   
 
前歌    戻る    次歌