Top  > 古今和歌集の部屋  > 巻三

       うづきに咲けるさくらを見てよめる 紀利貞  
136   
   あはれてふ  ことをあまたに  やらじとや  春におくれて  ひとり咲くらむ
          
     
  • あはれ ・・・ 心を動かされた時の感嘆詞
  • あまたに ・・・ 多くのものに
  
「あはれ」という感動の言葉を、その他多数には譲らないとして、春に遅れてここだけ咲いているのだろうか、という歌。

  紀利貞(としさだ)は生年不詳、881年没。875年少内記、879年大内記、従五位下。古今和歌集にはこの歌を含めて四首が採られている。

  旧暦の卯月(=四月)に咲いた桜を詠んだ歌で、十二ヶ月を四で割ると四月は夏のはじめの月であるため、 "春におくれて" と言っている。賞賛を一身に浴びようとして、この桜は他の桜が咲く春には咲かず、時期を遅らせて咲いているのか、ということ。"あはれてふ" の 「〜てふ」という表現を持った歌の一覧は 36番の歌のページを参照。

  古今和歌集の夏歌の部では 「ホトトギス−五月」のイメージが強く、他の夏の月(四月・六月)の印象は薄い。この歌でも詞書に 「卯月」とあるだけで歌自体には四月を指す言葉はない。140番の読人知らずの歌で「いつの間に 五月来ぬらむ」と五月が来るまでは、「五月待つ」、「五月こば」と五月が来ていないことで四月を指し、「五月」という言葉によってホトトギスと結びついている歌を並べている。六月(=水無月)についても似た扱いで、夏歌最後の躬恒の 168番の歌の詞書で「みなづきのつごもりの日よめる」と触れられているだけである(六月は 「常夏月」とも称されるので、「常夏の花」を詠った 167番の歌も、強引に考えれば六月をポイントしているといえなくもないが、当時 
「常夏月」という呼び方があったかどうかは不明)。しかし考えてみれば、五月は暦の上では 「四・五・六月」という夏の季節の中心にあるので、それが主になっても不思議はないとも言える。ちなみに上記以外でホトトギスを詠んでいない夏歌としては次の遍照と深養父の歌がある。

 
165   
   はちす葉の  にごりにしまぬ  心もて  何かは露を  珠とあざむく
     
166   
   夏の夜は  まだ宵ながら  明けぬるを  雲のいづこに  月宿るらむ
     
        桜の開花時期を詠ったものとしては、春歌上に次の二つの伊勢の歌がある。一つ目の歌には 「やよひにうるふ月ありける年よみける」という詞書があり、これは三月(=弥生)が閏月として一年に二回続いたことを指す。

 
61   
   桜花  春くははれる    年だにも   人の心に  あかれやはせぬ
     
68   
   見る人も  なき山里の  桜花  ほかの散りなむ    のちぞ咲かまし  
     
        また、「ひとり遅れて」咲くという表現は、998番の大江千里の「あしたづの ひとりおくれて 鳴く声は」という歌を連想させる。

  「あはれ」という言葉を使った歌の一覧は 939番の歌のページを参照。

 
( 2001/11/26 )   
(改 2004/02/25 )   
 
前歌    戻る    次歌