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       亭子院歌合せの時よめる 伊勢  
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   見る人も  なき山里の  桜花  ほかの散りなむ  のちぞ咲かまし
          
        詞書にある 「亭子院の歌合せ」は 913年三月に宇多法皇が亭子院で催したもの。ただし 「新編 
国歌大観  第五巻 」 (1987 角川書店 ISBN 4-04-020152-3 C3592)
 に収められている 「亭子院歌合」には、「伊勢」と作者名が付いている歌は三つあるが、この歌は記載されていない。

  913年当時の伊勢の状況としては、

  ■  907年に仕えていた七条の后(=藤原温子)が没している。
  ■  伊勢と宇多法皇との間の子もすでに亡くなっている。
        (899年の宇多上皇の出家以前の子であり、その享年が「伊勢集」にあるとおり五歳または
        八歳だとした場合)
  ■  伊勢と敦慶親王(あつよしのみこ:宇多天皇の第四皇子)との間の子である中務は生れて
        いるかどうか微妙なところであるが、敦慶親王の正室であった均子内親王(七条の后の娘)
        は910年に没している。

といったところである。また、「亭子院歌合」には伊勢の作と言われる前書きがついており、その中に記されている左方のメンバーの 「御せうとの中務のしのみこ」は 「四のみこ」で敦慶親王のことと思われる。

  歌の意味は、
見る人もない山里の桜花よ、他の花が散ってしまった後にこそ咲けばよいのに、ということ。そうすれば見にきてほめてくれる人もいるだろうに、という感じであろう。 "咲かまし" の 
「まし」は反実仮想の助動詞で、この 「まし」が使われている歌の一覧については 46番の歌のページを参照。

  この歌は春歌上の最後に置かれているが、前の二つの歌を含めると 「散りなむのち」の歌が三つつながっている。ただし、前の二つには 「桜花」という言葉は使われておらず、これらの前の読人知らずの歌で 「桜花」とあるのを二つ沈めて、この伊勢の歌で再び現し、"山里" で 山と出して、春歌下のはじめの読人知らずの歌に続けるような配置になっている。

 
65   
   折りとらば  惜しげにもあるか  桜花   いざ宿かりて  散るまでは見む
     
69   
   春霞  たなびく 山の    桜花   うつろはむとや  色かはりゆく
     
        夏歌のところで、遅く咲いた桜を 「あはれてふ ことをあまたに やらじとや」と詠っている 136番の紀利貞の歌をこの伊勢の歌と並べると、利貞の歌がこの歌に対し少し意地悪な口調で言っているようにも見える。

 
( 2001/09/12 )   
(改 2004/02/26 )   
 
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