Top  > 古今和歌集の部屋  > 巻十五

       業平の朝臣、紀の有常がむすめにすみけるを、うらむることありて、しばしの間、昼はきて夕さりはかへりのみしければ、よみてつかはしける 紀有常女  
784   
   天雲の  よそにも人の  なりゆくか  さすがに目には  見ゆるものから
          
     
  • さすがに ・・・ そうは言っても/〜とはいえ
  詞書の内容は「在原業平が紀有常の娘と暮らしていたが、気に入らないことがあって、しばらくの間、昼は来て夕方は帰るということをしていたので、詠んでおくった」歌ということ。

  歌の内容は、
あなたは空の雲のように私からだんだんと離れてゆくようですね、とはいえまだ目には見えるものですけれど、ということ。この歌には業平は 785番の「我がゐる山の 風はやみなり」という返しがついている。

  「天雲の」という言葉は、「よそ」にかかる枕詞としても使われるが、ここでは 「よそ」にあっても 
「目には見ゆるもの」の譬えとして「雲」の意味を運んでいる。 「よそ」という言葉を使った歌の一覧は 37番の歌のページを参照。 "なりゆくか" の 「か」は、774番の歌の 「まだもやまぬ」と同じで詠嘆のニュアンスを表す。また、「さすがに」という言葉は 1003番の忠岑の長歌でも 「さすがに命 惜しければ」というように使われている。 "見ゆるものから" の 「ものから」は逆接で、後半(四句目と五句目)は倒置のかたちである。 「ものから」という言葉を使った歌の一覧は 147番の歌のページを参照。

  この歌の皮肉っぽさは、 "さすがに目には 見ゆるものから" に集約されており、それ自体でも十分わかるが、次の読人知らずの歌と並べてみるとより明らかになる。

 
484   
   夕暮れは    雲 のはたてに  物ぞ思ふ  天つ空 なる  人を恋ふとて
     
        また、同じ恋歌五には次のような業平の孫の在原元方の歌があり、使われている言葉の感じが似ている。元方の父の棟梁(むねやな)は業平の長男であるが、棟梁の母が有常女であるかどうかは不明。

 
751   
   久方の  天つ空 にも  すまなくに  人はよそにぞ   思ふべらなる
     

( 2001/10/03 )   
(改 2004/03/15 )   
 
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