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       題しらず 読人知らず  
484   
   夕暮れは  雲のはたてに  物ぞ思ふ  天つ空なる  人を恋ふとて
          
     
  • はたて ・・・ 果て (果たて)
  
夕暮れになると雲の果てを見ては物思いにふける、あの空のように遠く高く、手の届かない人のことが恋しいために、という歌。夕焼けの空の雲ということであろう。

  392番の遍照の「夕暮れの まがきは山と」という歌などと比べると、この歌の 「夕暮れ」は飾りがない分、「〜の夕暮れは」と三十一文字の外に何か前置きを付けたくなるような感じがする。それは次の読人知らずの歌のからの連想であるかもしれない。

 
205   
   ひぐらしの    鳴く山里の    夕暮れは   風よりほかに  とふ人もなし
     
        しかし、実際にはその 「空き」の感じは、「天つ空」によって埋められ、全体としてのバランスはとれているのである。夕暮れから 「天つ空の人」というイメージによるつなぎ方はシンプルでわかりやすく、こうした歌の後に、次の 「唐衣」の歌のように言葉のつなぎで合わされているものを見ると、何かふざけているような感じを受けるが、そういうわけではなく、切り込み方の違いである。

 
515   
   唐衣  日も夕暮れに    なる時は   返す返すぞ  人は恋しき
     
        また、「雲のはたて」という言葉について、「古今和歌集全評釈  補訂版 」 (1987 竹岡正夫 右文書院 ISBN 4-8421-9605-X) によると、古くは 「蜘蛛の幡手」/「雲の旗手」という説があり、「雲の旗手」の説が有力だったということである(「旗手」とは旗のたなびく部分のこと)。何故それが 
「雲の果て」あるいは 「雲の端」という現在の説になったかと言えば、万葉集・巻八1429に 「国のはたてに」という言葉があるから、ということらしい。一方、「雲の旗手」という旧説でも万葉集・巻一15の 「海神の豊旗雲に入日さし」という歌をあげており、どちらも同じようなレベルであると考えられる。恋歌の中で 「空」という言葉を使っている歌の一覧は 481番の歌のページを参照。

 
( 2001/10/29 )   
(改 2004/01/15 )   
 
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