Top  > 古今和歌集の部屋  > 巻十四

       題しらず 読人知らず  
687   
   飛鳥川  淵は瀬になる  世なりとも  思ひそめてむ  人は忘れじ
          
     
  • 淵 ・・・ 深い所
  • 瀬 ・・・ 浅い所
  
飛鳥川の淵が瀬に変るような世となっても、深く思った人のことは忘れない、という歌。 933番の「世の中は 何か常なる 飛鳥川」という歌と関連して見ると、前半は世の無常について言っていると思われる。

  "思ひそめてむ" は 「思ひそめ+て+む」で「思ひ染む」の連用形+過去の助動詞「つ」の未然形+推量の助動詞「む」の連体形。 「てむ」は 20番の「明日さへ降らば 若菜つみてむ」のように「〜できるだろう」という可能のニュアンスや、276番の「匂ふかぎりは かざしてむ」のように願望を表すことが多いが、この歌の場合はどちらにもあてはまらない。 
「古今和歌集全評釈  補訂版 」 (1987 
竹岡正夫 右文書院 ISBN 4-8421-9605-X)
 では、この連体形の 「む」について「自分の体験ではあるがこれを一般的な事として表現しているもの」と述べられている。 「〜というような」というニュアンスであるらしい。

  
「古今和歌集全評釈(中)」 (1998 片桐洋一  講談社 ISBN4-06-205980-0) によると、志香須賀文庫華山天皇御本などいくつかの伝本では 「おほひそめてし」となっているようである。

  「思ひそむ」という言葉を使った歌の一覧は 471番の歌のページを参照。

   「淵」と 「瀬」の歌としては 「淵−深い心」「瀬−浅い心」という、次の素性法師の歌のようなものが思い浮かぶが、逆にそれでは一般的すぎて難しいということがあるかもしれない。

 
722   
   そこひなき やは騒ぐ  山川の  浅き にこそ  あだ浪はたて
     
        「淵」と 「瀬」をペアで使っている歌の一覧は 493番の歌のページを参照。

 
( 2001/12/10 )   
(改 2004/01/08 )   
 
前歌    戻る    次歌