Top  > 古今和歌集の部屋  > 巻十三

       寛平の御時きさいの宮の歌合せのうた 紀友則  
661   
   紅の  色にはいでじ  隠れ沼の  下にかよひて  恋は死ぬとも
          
        紅のようにはっきりと人にわかるようなことはしまい、隠れ沼の下の水のように密かに心を通わせながら表には出さず、そのために恋死にしてしまっても、という歌。

  "隠れ沼" (カクレヌ)は、万葉集では 「隠り沼」(コモリヌ)として出てくるもので、水草の葉に覆われて隠された沼のこと。それからするとこの友則の歌は、水面が塞がれた恋の窒息死の歌ということになる。 "隠れ沼" を使った別の歌としては、誹諧歌に次の忠岑の歌がある。

 
1036   
   隠れ沼の    下よりおふる   ねぬなはの  ねぬなは立てじ  くるないとひそ
     
        この友則の歌では 「紅」も 「隠れ沼」も共に序詞と考えられるが、どうも 「紅」と 「隠れ沼」がアンバランスである。序詞と承知した上で、忠岑の歌から 「ねぬなは」を借りると、「ねぬなは」は 「根・ぬなは」で、 「ぬなは」はスイレン科のジュンサイのことである。ぬるぬるしたその若芽は食用とされるが、その花は暗赤色である。 「紅」ほどはっきりした色ではないが 「隠れ沼」の上にその赤を見たい気もする。

  また、"下にかよひて" という表現は、同じ友則の 607番の歌に「みなせ川 下にかよひて 恋しきものを」というものがあり、本居宣長は「古今和歌集遠鏡」でこの 「隠れ沼」の歌について「
余材打聞ともに。下に通ひてを。たがひの心といへるは。わろし。かよひとは。たゞ沼水の縁の詞にていへるのみにて。歌の意はたゞ下に思ふことなり。」と述べている。

  確かに歌単体で見れば、「みなせ川」の歌もこの 「隠れ沼」の歌も、どちらも 「忍ぶ恋」のように見える。ただ、古今和歌集の配列からすると、この歌は 「名を立てない恋」の歌群の中に置かれていて、続く 661番の躬恒の「冬の池に すむにほ鳥の つれもなく」という歌に 「沼・池」関係で引っ張られているような感じがあり、その躬恒の歌でも 「かよふ」という言葉が使われていることから、友則を含めた撰者たちの意図としては、「
たゞ下に思ふことなり」ということではないように思われる。

  「紅」を詠った歌の一覧は 723番の歌のページを、「恋死ぬ」という歌の一覧は 492番の歌のページを参照。

 
( 2001/12/05 )   
(改 2004/03/09 )   
 
前歌    戻る    次歌