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       題しらず 読人知らず  
522   
   行く水に  数かくよりも  はかなきは  思はぬ人を  思ふなりけり
          
        流れてゆく水の上に指で数を書くよりもはかないことは、思ってくれない人を思うことだ、という歌。
"行く水に " という言葉からは、無駄に時が過ぎて行く、という感じもうかがえる。 「水に数書く」ということでは万葉集・巻十一2433に次のような歌がある。

    水の上に  数書くごとき  我が命  妹に逢はむと  うけひつるかも
    (うけふ=「誓ふ」:神に祈る/神意をうかがう)

  この万葉集の歌でも 「水に数書く=はかない」と置き換えることができるが、その源は「涅槃経」の、次のような言葉にあると、契沖「古今余材抄」などに書かれている( 
「古今和歌集全評釈  補訂版 」 (1987 竹岡正夫 右文書院 ISBN 4-8421-9605-X) によれば元は「顕註密勘」)。

 
     
是身無常念々不住  猶如電光暴水幻炎  亦如画水随画随合

(この身は無常にして念々住(とど)まらず、なお電光暴水幻炎の如し、また水に画くが如く随(したが)いて画けば随いて合う)


 
        最後の 「随画随合」の 「合う」というニュアンスがわかりづらいが、水が合って閉じ、その跡を消すということか。ここでの 「画(=畫)」は 「絵を描く」ことだとされていて、上記の万葉集の歌やこの歌の 「数書く」とは少し違うようだが、これらの歌では譬えとして使っているので、意味的には何を書こうがあまり変らないような気もする。その点、同じ 「数かく」でも次の恋歌五の場合は 「数」に意味があるようである。

 
761   
   暁の  しぎの羽がき  ももはがき  君が来ぬ夜は  我ぞ数かく  
     
        また、「はかなし」(=頼りない・無駄である)は、元々 「はか」(=仕事の進み具合)+「なし」というところから来ていて、132番の躬恒の歌などでも使われている。

  「行く水」を詠った歌には次のようなものがある。

 
     
471番    吉野川  岩波高く 行く水  紀貫之
492番    吉野川  岩切りとほし 行く水  読人知らず
494番    山高み  下ゆく水の 下にのみ  読人知らず
522番    行く水  数かくよりも はかなきは  読人知らず
793番    みなせ川  ありて行く水 なくはこそ  読人知らず
1001番    ゆく水  絶ゆる時なく  読人知らず


 
( 2001/12/05 )   
(改 2004/03/14 )   
 
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