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       兼覧王にはじめてものがたりして、別れける時によめる 凡河内躬恒  
399   
   別るれど  うれしくもあるか  今宵より  あひ見ぬ先に  何を恋ひまし
          
        詞書にある兼覧王(かねみのおおきみ)は惟喬親王の子である。躬恒との年齢差は不明だが、古今和歌集成立前の時期で言うと、886年に従四位下になっている。歌への関心という点で初見で意気投合したものであろう。この歌の前にある 397番398番の歌の貫之と兼覧王とのやりとりでも、詞書にはないが貫之は兼覧王に初めて逢ったような雰囲気があり、この躬恒の歌も同じ場で作られたようにも見えるが、仔細は不明である。

  歌の内容は、
別れることさえ今回に限ってはうれしくもあります、会えたことで今晩から恋しく思う対象ができたからです、ということ。 483番の「あはずはなにを 玉の緒にせむ」という恋歌を反語でひねったような物言いである。 「うれし」という言葉を使った歌の一覧については 709番の歌のページを、「あひ見る」ということを詠った歌の一覧については 97番の歌のページを参照。

  同じ上位の者であっても、酒の席に呼ばれて 「ホトトギスを待つ歌を詠め」と言われて詠んだ時の次の歌には、何か突き放したような感じがあるが、この歌では躬恒らしい口ぶりで兼覧王を褒め称えているのである。

 
161   
   郭公  声も聞こえず  山彦は  ほかになく音を  答へやはせぬ
     
        躬恒の歌は皮肉っぽい歌が多いという印象があるが、その詞書を眺めてみると人との接触で交わした歌が多く、意外に寂しがり屋なところが感じられる。この歌と似たような雰囲気を持つ歌としては、「むかしあひ知りて侍りける人の、秋の野にあひてものがたりしけるついでによめる」という詞書を持つ歌が秋歌上にある。

 
219   
   秋萩の  古枝に咲ける  花見れば  もとの心は  忘れざりけり
     
        「山の法師のもとへつかはしける」という次の雑歌下の歌でも、確かにからかいの気持ちはあるだろうが、半分は逢えなくて寂しいという思いが含まれているような気がする。

 
956   
   世を捨てて  山にいる人  山にても  なほ憂き時は  いづち行くらむ
     
        "何を恋ひまし" の 「まし」は反実仮想の助動詞で、その 「まし」が使われている歌の一覧は 46番の歌のページを参照。

 
( 2001/10/30 )   
(改 2004/03/09 )   
 
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