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       朱雀院の女郎花あはせによみてたてまつりける 凡河内躬恒  
234   
   女郎花  吹きすぎてくる  秋風は  目には見えねど  香こそしるけれ
          
     
  • しるけれ ・・・ 明らかである (著しの已然形)
  
オミナエシを吹きすぎてくる秋風は、目には見えないもののその香りではっきりとわかる、という歌だが、この歌の "女郎花" が現在のオミナエシと同じあるとすれば、その匂いが香しいものであるかは疑問である。そういう見方からすると、この歌はどうも躬恒自身の 41番の歌や次の貫之の歌のような春の梅に対して、無理やり秋のものとしてオミナエシを立たせ、「吹きくる風は 花の香ぞする」という在原元方の歌の秋バージョンに仕立て上げたようにも感じられる。

 
39   
   梅の花   匂ふ春べは  くらぶ山  闇に越ゆれど  しるくぞありける  
     
103   
   霞立つ  春の山辺は  遠けれど  吹きくる風は    花の香ぞする  
     
        あるいは作者が躬恒ということを考えれば、"しるけれ" (著し:=明らかな)とは言っているけれど、「いい香り」だとは言っていないよ、ということで、秋風の存在感を詠ったものなのかもしれない。また、上記の 103番の元方の歌は「寛平御時后宮歌合」のもので、この「朱雀院の女郎花あはせ」より前であることがわかっているので、単にそのパロディであるとも考えられなくもない。

  しかし、普通に読めば 「女郎花」に女(をみな)を合わせ、次の貫之の歌に近い、目の前にいない相手への恋の気持ちを含めて詠ったものと考えられる。

 
475   
   世の中は  かくこそありけれ  吹く風の    目に見ぬ 人も  恋しかりけり
     
        オミナエシが風に揺れる様子を詠ったものとしては、同じ歌合せの歌に次の藤原時平のものがある。躬恒の歌が花をかすめるような風を詠っているのに対し、時平の歌はオミナエシを真ん中に据えたポートレートのような趣きを持っている。

 
230   
   女郎花    秋の野風 に  うちなびき  心ひとつを  誰によすらむ
     
        「秋風」を詠った歌の一覧は 85番の歌のページを参照。

 
( 2001/08/12 )   
(改 2004/03/11 )   
 
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