Top  > 古今和歌集の部屋  > 巻十七

       田村の御時に、女房のさぶらひにて御屏風のゑ御覧じけるに、滝落ちたりける所おもしろし、これを題にてうたよめ、とさぶらふ人に仰せられければよめる 三条町  
930   
   思ひせく  心の内の  滝なれや  落つとは見れど  音の聞こえぬ
          
     
  • 思ひせく ・・・ 思いをせき止めている
  詞書の意味は 「田村の御時(=文徳天皇の時代)に女房たちの詰所で天皇が御屏風の絵を御覧になっていた時に、「滝が落ちているところがなかなかよい、これを題にして歌を詠め」と控えていた人々におっしゃったので詠んだ」歌ということ。 「女房のさぶらひ」とは清涼殿の台盤所(だいばんどころ)。

  三条町(さんじょうのまち)は紀静子で、文徳天皇との間に惟喬親王や恬子内親王をもうけている。「田村の御時」が文徳天皇の在位期間である850〜858年を指すとすれば、この歌が詠まれた時はすでに惟喬親王は生れていたことになる(惟喬親王の生年は844年)。古今和歌集に採られている歌はこの一首のみ。

  
思いを抑えている私の心の滝なのでしょうか、流れ落ちる様子は感じられるけれど、その音は人の耳にはとどきません、という歌。

  題詠ということもあり、歌の内容はかなり説明的だが、"思ひせく" という出だしは印象的である。 「滝の音」ということでは、次の読人知らずの恋歌などが思い出される。それに比べると "音の聞こえぬ" という抜き方には、どこか余韻が感じられる。

 
651   
   吉野川  水の心は  はやくとも  滝の音には    立てじとぞ思ふ  
     
        また、絵の方はともかくとして、心の内の滝が "音の聞こえぬ" 理由としては、次の読人知らずの歌を見ると、それがずっと奥にあるから、と言っているとも考えられる。

 
535   
   とぶ鳥の  声も聞こえぬ   奥山の  深き心を  人は知らなむ
     
        「〜なれや」という言葉を使った歌の一覧については 225番の歌のページを参照。

 
( 2001/10/25 )   
(改 2004/02/04 )   
 
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