Top  > 古今和歌集の部屋  > 巻十六

       深草のみかどの御時に、蔵人頭にて夜昼なれつかうまつりけるを、諒闇になりにければ、さらに世にもまじらずして比叡の山にのぼりて、かしらおろしてけり、そのまたの年、みな人御ぶくぬぎて、あるはかうぶりたまはりなど、よろこびけるを聞きてよめる 僧正遍照  
847   
   みな人は  花の衣に  なりぬなり  苔の袂よ  乾きだにせよ
          
     
  • 苔の袂 ・・・ 僧衣のこと
  • 乾きだにせよ ・・・ せめて乾くことを知れ
  詞書は 「仁明天皇の時代、蔵人頭として夜昼をわかず仕えていたが、諒闇になったので、全く世に混じらず、比叡の山にのぼり僧となった。その翌年、人々は喪に服していた地味な衣を脱ぎ、ある者は新しく位を賜ったりなどして、喪が明けたことを喜んでいると聞いて詠んだ」歌ということ。

  「諒闇(りょうあん)」とは天皇の父母が亡くなった時、世の中が一年間、喪に服すること。仁明天皇の崩御は 850年三月二十一日で、没年四十一歳。この時、遍照は三十五歳でその三月中に出家したと言われている。次の天皇は仁明天皇の第一皇子であった文徳天皇で、その即位は 850年四月十七日。文徳天皇は惟喬親王の父である。

  歌の意味は、
人は皆、花のように美しい衣に着替えたという、この私の苔の袂よ、せめて乾いて欲しい、ということ。 「苔の袂」とは、ここでは自分の着ている僧衣の袂の譬えで、それが未だに思い出すたびに涙で濡れるということを言っている。 静かな悲しみの中にも 「花の衣/苔の袂」の対に艶がある。 "苔の袂  乾きだにせ" という言い放ち方に妙味がある。その命令形を見ると、前の "なりぬなり" の 「なり」は断定のようにも感じられるが、「花の衣になったようだ」という伝聞の意味で、詞書の最後の 「〜を聞きてよめる」がそれに対応する。 「連用形+だに」というかたちを使った歌としては他に、242番の「今よりは 植ゑてだに見じ 花薄 」という平貞文の歌がある。 「だに」という言葉を使った歌の一覧は 48番の歌のページを参照。

  「花の衣」という言葉からは、遍照の子である素性法師の 1012番の「山吹の 花色衣 主や誰」という誹諧歌が思い出される。

  僧正遍照( "遍昭" と書かれることが多い)は、仮名序・真名序でいわゆる六歌仙の一人として上げられているが、出家したのはこの歌の詞書の通り、深草のみかど=仁明天皇(=嵯峨天皇の第二皇子)が亡くなった時である。その前の名前は良岑宗貞(よしみねのむねさだ)。父の安世は勅撰漢詩文集 「経国集」(827年)の編纂に携わった。

 
        僧正遍照の生年は 816年、在原行平は 818年、業平は 825年であるから、遍照と行平はほぼ同年代である。遍照(良岑宗貞)が蔵人頭となったのは、 849年、三十四歳の時である。(ちなみに、業平は 879年、五十五歳で蔵人頭)

  百人一首では僧正遍昭の名で採られている次の有名な歌は、古今和歌集では良岑宗貞の名前で採られている。上の歌と同じく、命令形を使った呼びかけがアクセントになっている。その他、遍照の命令形で思い出されるものとしては、 226番の「我おちにきと 人にかたるな」という 「女郎花」の歌がある。

 
872   
   天つ風  雲のかよひぢ  吹きとぢよ   乙女の姿  しばしとどめむ
     
        また、仁明天皇の第七皇子であった常康親王は、詞書にある 「そのまたの年」、つまり翌 851年二月には、仁明天皇の第七皇子である常康親王が同じように出家している。常康親王は、古今和歌集では雲林院親王として一首採られている。

 
781   
   吹きまよふ  野風を寒み  秋萩の  うつりもゆくか  人の心の
     

( 2001/07/31 )   
(改 2004/03/07 )   
 
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