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       思ひに侍りける年の秋、山寺へまかりける道にてよめる 紀貫之  
842   
   朝露の  おくての山田  かりそめに  うき世の中を  思ひぬるかな
          
     
  • おくて ・・・ 遅く成熟する稲(=晩稲:早稲の逆)
  • 山田 ・・・ 山の中の水田
  • かりそめに ・・・ 一時的に
  詞書にある「思ひに侍りける年」とは喪中の年というの意味。山寺へ行く途中という記述が、歌の中の "山田" に呼応している。
朝露の置く晩稲の山田を見ていると、ふと憂き世の中を思い出してしまった、という歌。 「朝露が置く−おくて」「仮そめ−刈り初め」を掛け、「思ひ」を詞書の「思ひ」(=喪中)に合わせている。一読、436番の 「さうび」の物名の歌と同じく何か嫌な感じのする歌である。 また、この歌の 「かりそめに」がどこに掛かるのかは微妙である。
  • (A) [かりそめに+憂き]+世の中を+思った
  • (B) 憂き世の中を+[かりそめに+思った]
  • (C) 憂き世の中を+かりそめ(のもの)に+思った
  (A) は「うき世」を 「浮き世」と見れば、「かりそめで、定かではない世」ということで、最も哀傷歌の流れとして合っているように思われるが、その場合 「かりそめ」であった方がよさそうである。また、「かりそめなのに憂き世」とも考えられるが、その場合は 「うき世の中」の方が合っている。

  (B) は二句目までを序詞として切り離した場合に、最も可能性がありそうだが、「一時的に思った」ということでは何のことかよくわからない。 「自分のものではない仮のものとして思っていた」とすると哀傷歌の意図に沿うが、それでは (C)と同じである。

  (C) は 「浮き世=かりそめ」では (A)と変らず、「憂き世が自分のものではない仮のものと思っていた」と見れば哀傷歌らしいが、 "思ひぬるかな" いう、その場で 「思った」という感じと合わないような気がする。どちらにせよこの (C)の場合は 「かりそめ」であった方がよさそうである。

  以上から考えて、かたちとしては (B)がよさそうであり、ここでは 「朝露が置く山田」と 「遅い稲」から、(恐らく年老いて不遇な環境の中で亡くなった)故人のことを偲び、ああ辛い世の中だと「かりそめに」思われた、しかしそれもやはり亡くなった今から思えば「仮」のことだったのだな、というようなニュアンスでとっておきたい。

 
     
  ちなみに (A)を採用しているものには、「古今和歌集全評釈(下)」 (1998 片桐洋一  講談社 ISBN4-06-208753-7) の「...はかなくかりそめであるつらい世の中をしみじみと思うようになったことであるよ」という訳ある。

  (B)を採用しているものには、賀茂真淵「古今和歌集打聴」が "思ひぬるかな" の部分を「おもひつるかな」と記して、「
よの中のはかなきをさき/゛\には唯仮初に思ひしが今ぞ深く世の常なき事をしらるゝと也 つる哉とは過し事なれば也」とし、本居宣長も「古今和歌集遠鏡」で、その「つる」には触れず、「ぬる」のままで「今マデハ 世ノ中ノウイモノヂヤト云コトヲ タヾウカ/\トカリソメニ思フテ居タコトカナ 今度不幸ニアウテ世ノ中ノウイコトヲ真実ニ思ヒシツタ」としている。

  (C)を採用しているものには、
「古今和歌集全評釈  補訂版 」 (1987 竹岡正夫 右文書院 
ISBN 4-8421-9605-X)
 の「...ほんの一時的でかりそめだと、この憂き世の中を、思うようになってしもうたなあ」という訳があり、(C)の中でも (A)に近い。


 
        「かりそめ」という言葉は、862番の在原滋春の歌にあり、同じ貫之の次の歌の中では、やはり 
「刈り初め」と掛けられて使われている。

 
916   
   難波潟  おふる玉藻を  かりそめの   海人とぞ我は  なりぬべらなる
     
        これらをまとめておくと次の通り。

 
     
842番    朝露の おくての山田  かりそめ  紀貫之
862番    かりそめ  行きかひぢとぞ 思ひこし  在原滋春
916番    難波潟 おふる玉藻を  かりそめ  紀貫之


 
( 2001/07/10 )   
(改 2004/02/03 )   
 
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