Top  > 古今和歌集の部屋  > 巻十三

       題しらず 読人知らず  
673   
   あふことは  玉の緒ばかり  名の立つは  吉野の川の  たぎつ瀬のごと
          
     
  • 玉の緒ばかり ・・・ ほんの少しの時間だけ
  • 名の立つ ・・・ 噂になる
  • たぎつ瀬 ・・・ 水が激しく流れる川瀬
  
逢う時間はほんの少しだけなのに、噂になるのは吉野の川の流れのように早くて止まずに騒がしいことだ、という歌。 「逢ふこと−名が立つ」に対して 「玉の緒−吉野の滝」が当てられている。これは万葉集・巻十四3358の次の歌をベースにしていると思われる。

    さ寝らくは 玉の緒ばかり 恋ふらくは 富士の高嶺の 鳴沢のごと

  これと比較してみると 「玉の緒ばかり」と譬えられている 「さ寝らく(=共寝すること)−あふこと」はほとんど同じで、後半が 「恋ふらく」から 「名の立つ」に変えられ、その譬えが 「富士の高嶺の鳴沢」から 「吉野の川のたぎつ瀬」に移されている。

  万葉集の歌の 「富士の高嶺の鳴沢」では、「鳴沢」が 「激しく、響くように」ということ表し、「富士の高嶺」で 「長らく・ずっと」というイメージを補佐して、前半の 「玉の緒」の短さに対比させているように見える。一方、この古今和歌集の歌では、「たぎつ瀬」が 「激しく、騒がしい」ということを表しているのは同じだが、そこに 「早い」ということが加わっているように見える。また 「吉野の川」という言葉だけではあまり 「長い」というイメージが湧かないが、逆に前の 「玉の緒」から、「止まず・ずっと」というニュアンスが浮かび上がってくるような感じである。

  「玉の緒」は時間が短いということばかりではなく、次の友則の歌のように 「絶える」に掛かる枕詞としても使われる。

 
667   
   下にのみ  恋ふれば苦し  玉の緒の   絶えて乱れむ  人なとがめそ
     
        ただ、次の藤原興風の歌でもあるように 「玉の緒ばかり」と 「ばかり」がつくと、時間が短いことを指すことが多いようである。

 
568   
   死ぬる命  生きもやすると  こころみに  玉の緒ばかり   あはむと言はなむ
     

( 2001/08/20 )   
(改 2004/01/07 )   
 
前歌    戻る    次歌