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       題しらず 読人知らず  
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   我が恋は  むなしき空に  満ちぬらし  思ひやれども  行く方もなし
          
     
  • 思ひやれども ・・・ 思いを馳せるけれど (思ひ遣る)
  
私の恋はむなしい空に満ちているらしい、思いを届けようとしても行く方向がない、という歌。我が恋はむなしさで一杯だ、というのならばわかるが、「むなしい空に満ち」それが 「行く方もない」という意味はわかりづらい。

  他の歌から類推してみると、まず 567番に 「君恋ふる 涙の床 満ちぬれば」という藤原興風の歌がある。それからすると 「むなしき空 満ちぬらし」は、「恋が空(そら)に満ちる」ということである。 「むなしき空」は 「虚空(キョクウ・コクウ)」の言い換えで意味上は単に 「大空」のことと考えてかまわないだろう。恋しい気持ちがどんどん大きくなってついには空を満たすほどになったようだ、という誇張表現が前半の意味。

  次に 「思ひやる」という言葉は 524番の「思ひやる さかひはるかに なりやする」と 980番の「思ひやる 越の白山 知らねども」という歌に出てくる。古くは 「気を晴らす(=物思いをよそにやる)」という意味で使われたようだが、古今和歌集の時代では 「思い」を「遣(つか)わす」というイメージ。

  「行く方」がないという言葉は 462番に「沼水の 行く方のなき 我が心かな」という忠岑の歌あって、そこでは動きようのない閉塞感の表現として使われているが、ここでは目的地の方向がわからない、どちらに行けば着くのかわからないというニュアンスでよいと思われる。つまり後半は「届かぬ思い」を表している。

  前半と後半を合わせるとこの歌は、
自分の気持ちばかりが大きくなってどうすれば相手に思いを伝えられるのかまったくわからない、という状態を詠ったものと考えられる。届かぬ理由は大きくなる思い、という単純図式の中に 「虚しい空に満ちる」という字面上の特異な対比を当てているので、それに引きずられて全体の内容が伝わりづらくなっているようである。そこがまたこの歌の趣向でもあり、大味な感じが大らかに思えなくもない。それに比べて「境界線が遠くなったのか」という上記の 524番は遠くなる理由をぼかしているが歌の意味はとりやすい。

  恋歌の中で 「空」という言葉を使っている歌の一覧は 481番の歌のページを、「〜ぬらし」というかたちが使われている歌の一覧は 192番の歌のページを、「方」という言葉を使った歌の一覧は 201番の歌のページを参照。

 
( 2001/11/28 )   
(改 2009/08/18 )   
 
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