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       桜の花の散るをよめる 紀友則  
84   
   久方の  光のどけき  春の日に  しづ心なく  花の散るらむ
          
     
  • のどけき ・・・ のどかな (長閑けし)
  • しづ心 ・・・ 静かな心
  • 散るらむ ・・・ (なぜ)散るのだろうか
  百人一首にも採られている有名な歌で、
こんなうららかな春の光の中、どうして桜は次々と散ってゆくのだろう、という歌。疑問の推量を表す助動詞 "らむ" で、風が無理やり散らしているわけではないのに、という気持ちを含めている。 "しづ心なく" 散る花びらは、競うように散っているのだが、それはまるで音のしない雨のようで、歌には静けさが感じられる。その一方で、その静けさの中には音にならないざわめきがあって、それが 「こんなのどかな日なのに何故?」という疑問と共に、人の心を共鳴させて一種の不安を呼び起こす。それがいわゆる 「哀しみ」である。

  似たような 「哀しみ」は、次の遍照の歌や業平の月に対する思いの中にも見ることができる。

 
292   
   わび人の  わきて立ち寄る  木のもとは  たのむかげなく  もみぢ散りけり
     
747   
   月やあらぬ  春や昔の  春ならぬ  我が身ひとつは  もとの身にして
     
        この二つの歌は友則の歌のように「無想」という感じではないが、紅葉や月に托すところを取り除いた後に残る透明な 「哀しみ」は同じである。

  それに対し、同じような花への問いかけをしながら、この歌と対極にあるのが次の素性法師の歌である。友則のような歌が続くと思って古今和歌集を開く人は、このような駄洒落の歌が多いことにがっかりするだろうが、それは歌集としての 「幅」であり、それを楽しめる余裕を持ちたい。

 
1012   
   山吹の  花色衣  主や誰  問へど答へず  くちなしにして
     
        また、現代のようにソメイヨシノが狂い咲く様を見ては、この歌のように 「哀しみ」を感じるよりも、
「しづ心なく  花の咲くらむ」という感想を持つことが多い。

  「久方の」という枕詞を使った歌の一覧は 269番の歌のページを参照。

 
( 2001/09/06 )   
(改 2004/03/07 )   
 
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