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       ささ、まつ、びは、ばせをば 紀乳母  
454   
   いささめに  時まつまにぞ  日はへぬる  心ばせをば  人に見えつつ
          
     
  • いささめに ・・・ かりそめに
  • 心ばせ ・・・ 心の思い
  • 人に見えつつ ・・・ あの人に知られながらも
  紀乳母(きのめのと)は紀全子。生没年不詳。陽成天皇の乳母で、陽成天皇即位の翌年の 877年に従五位下、882年従五位上。古今和歌集にはもう一首 1028番の歌が採られている。

  「い
ササめに」「ときマツまにぞ」「ヒハへぬる」「こころバセヲバ」という各部分に題の言葉が含まれている。 「びは」は 「枇杷(ビワ)」、「ばせをば」は 「芭蕉(葉)」でバショウ科の大型の多年草。この四つには特に関連性は見当たらないが、強いて言えば薬草つながりか(笹:胃もたれ/松:貧血/枇杷:あせも/芭蕉:解熱)。

  歌の意味は、
ほんの少しと思ってタイミングを待っている間に日は経ってしまった、この心の思いをあの人に知られながらも、ということ。練りながら作った感じが見られ、歌の姿も崩れていない。五つの句のうち、はじめの四つに題を一つづつ入れながらも、最後の "人に見えつつ" には入っていないのは、何か考えがあってのことか、単に入れられなかったかのどちらであるかはわからない。それらを筒の中に入れるという駄洒落ではないようである。

  "日はへぬる" の 「経(ふ)」という言葉が使われている歌の一覧は 596番の歌のページを参照。

  さて、この紀乳母の歌は、四つの言葉を含んでいて、これは古今和歌集の物名の歌の中で最多であり、続く 455番の 「なし、なつめ、くるみ」と同じく、数を集めるという点に面白さを求めたものと考えられる。その一方で、普通は歌に入れられないような音という意味で、変ったものを入れて面白さを求めるという方向もある。次の貫之の 「さうび」の歌などがそれにあたるだろう。

 
436   
   我はけ    うひ にぞ見つる  花の色を  あだなるものと  言ふべかりけり
     
        しかし、 "日は" を 「枇杷」だと主張する、この肩や胸にも目玉のある怪物のような紀乳母の歌に対して、上記の貫之の歌はまったく面白味に欠ける。例えばマルスリーヌ・デボルド=ヴァルモールの「サアディの薔薇」などを好む人が、古今和歌集にも薔薇の歌があると聞いて探したところ、物名の中にそれを見つけて、あまりの馬鹿らしさにがっかりして、古今和歌集も紀貫之も嫌いになってしまうということもありうる。

  それはそれで仕方のないことだが、少しの忍耐と心の余裕があれば、そのうちその 「脱力感」も古今和歌集の一つの特徴として楽しむことができるかもしれない。物名の歌の中でも次の四つの歌などは、それほど駄洒落の臭味がなく、受け入れられ易いのではないかと思われる。

 
424   
   浪の 打つ    瀬見 れば玉ぞ  乱れける  拾はば袖に  はかなからむや
     
448   
   空蝉の 殻は木 ごとに  とどむれど  魂のゆくへを  見ぬぞかなしき
     
459   
   浪の花  沖 から咲き て  散りくめり  水の春とは  風やなるらむ
     
463   
   秋くれば  月の 桂の   実や はなる  光を花と  散らすばかりを
     
        掛詞と物名(隠し題)との違いは、物名の歌がはじめから物名を目的に作られているということ以外に、物名で込められた言葉は地の歌上はその意味が失われているという点にある。例えば、強い 「脱力感」を感じられる次の在原滋春(業平の次男といわれる)の歌は、甲斐の国の知人を訪ねる際に、道中病に倒れ、 "いまいま" となった時、京にいる母に送った歌であるが、そこでは 「行きかう道」に 「甲斐路」が掛けられていて、歌の中で掛けられている 「行きかう道」の部分は意味を失っていない。よってこれは物名ではなく、掛詞ということになるのである。

 
862   
   かりそめの  行き かひぢ とぞ  思ひこし  今はかぎりの  門出なりけり
     
        ただし、これはあくまで一般論であり、例外もある。例えば 453番の 「わらび」の歌は物名とされているが、地の歌での 「藁火」の意味は消えていない。物名の部の先頭にある藤原敏行の 422番の 「うぐひす」の歌もそうである。杓子定規に考えないことが必要であろう。

 
( 2001/10/17 )   
(改 2004/02/24 )   
 
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