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       題しらず 読人知らず  
216   
   秋萩に  うらびれをれば  あしひきの  山下とよみ  鹿の鳴くらむ
          
     
  • うらびれ ・・・ しょんぼりして
  • 山下 ・・・ 山のふもと
  • とよみ ・・・ 響く
  
秋萩にしょんぼりしていると、山の麓に響くように鹿が鳴くようだ、という歌。

  この歌はまず誰が "秋萩に  うらびれをれば" なのかが問題になる。ざっと読むとそれは鹿のように見えるが、最後の "鹿の鳴くらむ" という置き方からすると、どうもそれではおかしい。とすると「うらびれ」ているのは作者ということになる。万葉集・巻十2143に次のような歌があり、

    君に恋ひ  うらぶれ居れば  敷の野の  秋萩しのぎ  さを鹿鳴くも

「うらびる」と 「うらぶる」が同じものとし、それからの連想で言えば、しょんぼりしている理由もこの万葉集の歌と似たものとも想像できる。

  次に "鹿の鳴くらむ" の「らむ」が気になるが、これは推量の助動詞で「鳴いているのだろう」ということで、それに "山下とよみ" という修飾がついて 「山の麓に響き渡るほど+鳴いているのだろう」となる。ここで "うらびれおれば" の 「ば」を 「〜しているので」という理由を表すものと考えれば、文法的には「自分が秋萩のところでしょんぼりしているので、鹿は山の麓に響き渡るほど鳴いているのだろう」ということになる。しかし、それではどうも因果関係がすっきりしない。賀茂真淵「古今和歌集打聴」のように「
鹿はおのが妻とおもへる萩なればねたみてや鳴くらん」という 「萩は鹿の妻」という見立てという考え方もあるが、どうもこの歌がそこまで言っているようには思えない。

  そこで 「ば」は、「〜していると」という同時進行を表すものと考える。その上で、「らむ」に 「どうして〜だろう」という疑問の味付けがあるととれば、「自分が秋萩のところでしょんぼりしていると、どうして鹿は山の麓に響き渡るほどああも鳴いているのだろう」ということになる。これで意味の通りは多少よくなるが、それは因果関係の不可解さを無理やり疑問にしただけの強引な解釈で、まだ今一つという感じである。

  別の見方としては、218番の藤原敏行の「高砂の 尾上の鹿は 今や鳴くらむ」という歌と並べて見るという方法もある。敏行の歌には 「今や」という言葉が入っているが、この二つを見比べると 「鹿の鳴き」については同じようなことを言っているのではないかと思われてくる。そこで 217番の歌から 「目には見えずて」を拾い上げて、この歌に 「どこかで」という言葉を補って「自分が秋萩のところでしょんぼりしていると、どこかで山の麓に響き渡るほどの声で鹿が鳴いているようだ」としてみたい。推量の 「らむ」を歌の言葉にない 「どこかで」に掛けるというこれもまた強引な解釈だが、 "山下とよみ" の実際に聴こえている感じと 「らむ」の推量に折り合いをつけるにはこれが一番シンプルなような気がする。

  「鹿−山−とよむ」ということでは、582番の読人知らずの歌に「秋なれば 山とよむまで 鳴く鹿に」という歌があり、「あしひきの 山下〜」というフレーズは次の読人知らずの歌でも使われている。

 
491   
   あしひきの    山下水の   木隠れて  たぎつ心を  せきぞかねつる
     
        また、「あしひきの−山−をれば」ということでは、461番に貫之の「あしひきの 山辺にをれば 白雲の」という歌がある。

  古今和歌集の配列で見ると、214番の歌から 「鹿」の歌が続いているが、それに重ねてこの歌から 224番まで 「萩」の歌が続く。 「鹿」を詠った歌の一覧は 214番の歌のページを、「萩」を詠った歌の一覧は 198番の歌のページを参照。

 
( 2001/11/28 )   
(改 2004/01/26 )   
 
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