Top  > 古今和歌集の部屋  > 巻九

       朱雀院の奈良におはしましたりける時にたむけ山にてよみける 素性法師  
421   
   たむけには  つづりの袖も  切るべきに  紅葉にあける  神やかへさむ
          
     
  • たむけ ・・・ 旅をする時に道中の安全を祈願すること (手向け)
  • つづりの ・・・ つなぎ合せた・つぎはぎの
  歌の意味は、
手向けの幣としてこの粗末な衣の袖でも切って散らすのが筋でしょうが、そんなことをしても美しい紅葉に見飽きている神は、いらないと言って返すことでしょう、ということ。紅葉を秋が手向ける幣と見立てる、ということをひねったものだが、言葉のつながりは素直でわかりやすい。

  また、この素性の歌の "神やかへさむ" とは、大げさに言えば 「神に拒絶されることの予感」であるが、その意味では次の読人知らずの歌にも通じるものが感じられる。

 
501   
   恋せじと  みたらし川に  せしみそぎ  神はうけずぞ    なりにけらしも  
     
        この素性の歌の詞書は、一つ前の 420番菅原道真の歌の詞書から引き継いだもので、一般的には898年十月の宇多上皇の宮滝御幸の時のこと、とされている。

  ただ、「扶桑略記」に収録されている、菅原道真の記録からの抜粋を見ると、もし「たむけ山」が京都と奈良の境の平城山(=奈良山:ならやま)だとすると、素性が上皇の一行と合流する前のことなので、そこに道真と素性が同時にいて歌を詠むというのは少しおかしい感じがする。
こちらを参照のこと)

  この点について、顕昭の「古今集註」(1191年)のこの歌の注の部分に一つの説が述べられている。
「日本歌学大系 別巻4」(1980 久曾神昇 風間書房)を元にその内容を見てみると次の通り。

 
   
この素性の歌は一つ前の菅原道真公の歌に少しも劣らないと藤原顕輔卿などはおっしゃった。そして顕輔卿があの「宮滝御幸記」を御覧になったところ、手向山にて道真公があの歌を詠み、それを次の朝に素性が見てこの歌をよんだものという。とすれば、道真公の歌に心動かされて詠んだものか、とも言われた。また、道真公の歌の心にそって詠んだのであれば、その歌と同じように、紅葉の錦、と詠みたかったのだが、詞が余ってしまうのでそれができなかったようだ。

(...
此歌ハ天神ノ御詠ニモ、イクバクモオトラジナド顕輔卿ナドハマウシハベリキ。而彼宮滝ノ記ヲ見給シカバ、手向山ニテ天神此歌ヲヨマセ給、其会ヲ後朝ニ見テ素性ハ詠ゼリ。然者彼御詠ニコヽロヅキテ詠歟トモマウシツベシ。又此詠ノコヽロトリテハ、同クハ紅葉ノ錦トヨマヽホシクヤ。詞アマリテエヨミノセヌニコソ。...)


        「扶桑略記」の記述と合わせて見ると、どうもこれは素性が上皇一行と合流し、その晩大和の国高市郡にある菅原朝臣の山荘に泊った10月23日のことと思われる。「後朝」(=翌朝)というのが少し気になるが、平城山を過ぎたのが10月22日で、その翌日ということだろうか。また、上記の「詞アマリテ〜」というのは、「扶桑略記」でいう「願減三字」あたりのことを指しているようだが、それは 「宮滝御幸記」にあった記述というより、顕輔あるいは顕昭の憶測のように感じられる。

  この説を受け入れるかどうかは、藤原顕輔(1090-1155)が「宮滝ノ記」のオリジナルを見たということを信じるかどうかにかかっているが、顕輔の実子である藤原清輔(1104-1177)の 「袋草紙」の 「置白紙作法」という部分に次のような記述があり、どうも清輔も 「宮滝御幸記」を見ているようである。これもまた
「日本歌学大系 第2巻」(1956 佐佐木信綱 風間書房)を元に読んでみるとその内容は次の通り。

 
   
宇多上皇が宮滝御遊覧の時、源善朝臣が「やたがらすを句のかしらに置き、島の鴨(かも)を句の末に置いて旅の歌を詠め」という題を出した。源昇朝臣と在原友于朝臣は、色々考えたけれどもまったく歌が出てこない。そこで二人が大いに歎いて言うには、「歌をすぐさま作るという点においては、藤原如道たちには及ばないかったが、自分たちは和歌の道というものを熟知している。調子のいい時もあれば悪い時もある。今夜は懸命に尽力したけれども、その悪い時にあたったのだ。藤原如道たちは和歌の道というものを知らずにただやみくもに作り、出来た出来たと喜んでいる。悲しいことだ。」

(...
寛平法皇宮滝遊覧時、源昇朝臣、在原友于朝臣(行平中納言息)、置白紙云々。記云、即善朝臣献其題。歌曰、
    やたがらすかしらにおきてしのゝかみ句のすゑにおきたいの歌よめ
侍臣等題ヲ聞てより、口食并管弦ヲ忘。昇、友于起沈吟遂不能成。大歎曰、臣等歌興非不及於如道等歟。然而臣等頗知和歌道。善々悪々。今夜謀窮力屈遂悲其悪。如道等不知其道。自以為善、悲哉。
...)


        「やたがらす〜」の部分はわかりづらいが、「素性集」(「和歌文学大系18 小町集/業平集/遍照集/素性集/伊勢集/猿丸集」(1998 室城秀之・高野晴代・鈴木宏子 明治書院) ISBN4-625-51318-9))には、「「嶋の鴨、八咫烏をだいにて和歌たてまつれ」と仰せごとあれば、八咫烏を句の上に据ゑ、島の鴨を句のかみに据ゑて、旅の心を」という詞書がついて

    
まべに  びの雲ま  りがね  うたくもある  みかはるか

  という素性の歌が載せられている。(この詞書の「島の鴨を句のかみに据ゑて」は 「しもに」の書き誤り、歌の部分の 「たびの雲まま」は「雲の間」の誤記とされている。)

  上記の中の 「記云」というのは、道真の 「宮滝御幸記」であると思われ、藤原清輔はそこから引用しているように見える。その他、藤原定家(1162-1241)の「新勅撰集」(1235年)の巻八502の源昇の歌の詞書にも 「亭子院、宮滝御覧しにおはしましける御ともにつかうまつりて、ひくらし野といふ所をよみ侍ける」と宮滝御幸についてふれている。 「扶桑略記」の成立の年は不明だが、それを書いた皇円の没年は1169年であるので、藤原顕輔が 「宮滝御幸記」のオリジナルを見ている可能性は高いと思われる。

  あとはそもそも 「宮滝御幸記」自体が道真の主観で書かれており、上記の 「袋草紙」や 「扶桑略記」に引かれている部分だけを見ても、そこには素性や源昇や在原友于などに対する少し見下したような皮肉が垣間見えるので、素性の歌が道真の歌を元にしたという道真の話を 「天神様の言う通り」と真に受けてよいかどうかのレベルになる。

 
( 2001/09/28 )   
(改 2003/11/28 )   
 
前歌    戻る    次歌