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       題しらず 読人知らず  
70   
   待てと言ふに  散らでしとまる  ものならば  何を桜に  思ひまさまし
          
        待てと言って、散らずいてくれるものならば、これ以上何を桜に望むだろうか、という歌。

  "思ひまさまし" という語感が面白い。文法的には 「思ひまさ+まし」で、前の部分は 「思ひます」の未然形である。この 「思ひます」は 「思ひ優す」のように感じるが、
「古今和歌集全評釈  補訂版」 (1987 竹岡正夫 右文書院 ISBN 4-8421-9605-X) や 「古今和歌集全評釈(上)」 (1998 片桐洋一  講談社 ISBN4-06-205979-7)では、万葉集や古今六帖の用例を引いて、これは 「思ひ増す」である、と述べられている。

  「まし」は 「言って散るのが止まるものならば」という実際とは異なる仮定を受けて、「だとすれば〜だろうに」という気持ちを表す反実仮想の助動詞で、そこに "何を" が加わることにより、「〜だろうか」という反語のニュアンスになっている。 「まし」が使われている歌の一覧は 46番の歌のページを参照。 "散らでしとまる " の 「し」は強調の副助詞。

  「思ひます」が 「思ひ優す」でないとするなら、 "何を桜に  思ひまさまし" を、

    (A) 他の何を、桜以上に、すばらしいものと思うだろうか

  とする解釈は成り立たなくなる。そこで 「何を−思ひ増す」から考えれば、上に挙げた、

    (B) 何を、桜に(足りないと思って)、さらに望むことがあるだろうか

  ということになるが、それでは「思ひ増す」の部分が無理だとして、

    (C) これ以上どんな思いを、桜に、募らせることがあるだろうか

とし、そこからさかのぼって、「言って止まるようなら桜の魅力もそこまでで、散るからこそ、さらに思いが増すのである」という解釈も出てくる。
「例解 古語辞典 第三版」 (1993 三省堂 ISBN4-385-13327-1)では、「思ひ優す」の用例としてこの歌を引きながら、解釈としては (C) を採っている。

  しかし、散るからこそすばらしい、という (C) の解釈は、続く 71番の「残りなく 散るぞめでたき 桜花」という読人知らずの歌に引っ張られすぎている感じがある。この歌はやはり、前半の "散らでしとまる " の 「し」 をそのまま素直に重く見て、散って欲しくないという気持ち ととらえた方が自然であるような気がする。 107番の春澄洽子(あまねいこ)の「散る花の  なくにしとまる  ものならば」という言い方も参考に見ておきたい。

 
( 2001/12/11 )   
(改 2004/02/26 )   
 
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