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       ふるとしに春たちける日よめる 在原元方  
 
   年の内に  春は来にけり  ひととせを  こぞとや言はむ  今年とや言はむ
         
        暦の都合で年内に立春があった日に、春が来たのならば昨日までの日々はすでに去年になってしまうのだろうか、という気持ちを表した歌。 元方は業平の孫。  
       
     
  ここで出てくる立春とは、太陽の運行を元にした二十四節気というもののひとつで、日照時間の一番短い冬至から数えて、小寒・大寒・立春と四番目に当たる。二十四節気はひとつの区切りを15日とするので、立春は冬至から約45日後になる。(15日X24では360日にしかならないため実際には調整が入る)

  一方、昔の暦の一年および何月何日というのは、約29.5日である月の周期から決められていた。それによると十二ヶ月は約354日となり、太陽の暦より周期が短いため、ある年の立春を一月一日とすると、次の年の立春は一月一日より約11日先の日付になる。それを続けていると年ごとに季節とのズレが大きくなってしまうので、約三年に一度、うるう月といって一ヶ月まるまる増やすことにより調整した。

  しかしどうしても、うるう月がある年は一年の日数が約29.5日延びるため、結果として一年の間に一月と十二月に二回立春がきてしまうことがある。そして二回立春が来た次の年は、年内に次の立春が来なかったり、年の終わりに立春が来たりする。


 
        恐らくこの歌は年内立春という題からひねり出したもので、その発想は単なる思い付きにすぎないものだったと思われる。それが古今和歌集のはじめの歌として採用され、人の目を引くようになったのはこの歌にとって少々重荷であるような気もする。しかし、それは同時に古今和歌集の入口の試金石にもなっていて、この「おバカな門番」を見て、想像していたものと違うと引き返してしまう人もいれば、想像していたよりも入りやすいと思う人もいて、それはそれで機能しているのである。要は 「王様は裸だ」と見るか、「裸だけれど王様だ」と見るかの違いである。

  さて、この歌をあらためて見てみると、(立春)に対して暦(一年の区切り)で返していることがわかる。そのためにイメージの広がりはないが、どことなくおおらかな感じがするのは、字余りや同語の繰り返しという制約から自由な詠いぶりも関係していると思われる。また、特にこの歌の"ひととせを"という置き方は、次の小町の"いたづらに"という呼吸と同じであり、見るべきものがないわけではない。

 
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   花の色は  うつりにけりな   いたづらに   我が身世にふる  ながめせしまに
     

( 2001/05/03 )   
(改 2003/10/07 )   
 
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