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  契沖の「古今余材抄」について
 
  契沖(1640-1701)が元禄四年(1691)頃に著した古今和歌集の注釈書であり、「余材」・「打聴」・「遠鏡」の中では最も古いものである。余材抄という名前については巻一のはじめに次のように書かれている。

これをしも餘材抄となつくることはさきにゆゑありておもひかけす萬葉集の代匠記つくれることありそれつくるとて文の苑に入り筆の林をわけて山といへは白雲のかゝらぬ山なく杣といへはまさきのつなはへぬ杣なくして引来れる木は高砂の松まきもくの檜原泊瀬の川辺のふたもとの杉しのたの森のちゝの楠をよひなき月のかつら星の楡に至るまて心をすみなはにかけ思ひを斧にめくらさすといふ事なくしてちひきの石かたきしるしをすゑまきはしらふとしきことわりをたてゝことすてになりにしかはしらつちをけつるたくみにあらすして鼻をそこなはす石をあてとせしひた人にあらすして斧をからさることをおもふに心ひとつによろこほひてすくふつはめの飛たちぬへくあさるすゝめのおとりぬへし家をつくるには必あまりの木ありかしこをあかくしてこゝを山をなしかしこをかふろにしてこゝを林となすゆゑにしかはあれとたゝなほやはくたすへきとてさらにみつはよつはなるものつくることあるになすらへてかくは名付たるなり又いはく友とせしもとの下河辺のなにかしか菅家萬葉紀氏六帖これらにある此集の歌のたかへるをかたはらにかきつゝけおけるをすてしと思ふより又ものゝはしにしるしおけることゝもをすてしとおもふよりは事のおこりて玉たすきこなたかなたをかけたれはそのあまりの木いつとなく歌の源よりなかれてこの詞の海に出つるなめり

  つまり「万葉代匠記」を書いた時の余りの材料からできたものだから「余材」と名付けたということだが、その内容は顕注や参考歌を多く引き、古今和歌集の博学辞典のような感じで、江戸時代の古今和歌集注釈の要(かなめ)の役割を果たしている。
 
  余材抄からの引用部分は 「国文注釈全書 古今余材抄・尾張の家苞」 (1909 室松岩雄編 国学院大学出版部)による  


  賀茂真淵の「古今和歌集打聴」について
 
  「打聴」という名前からもわかる通り、これは賀茂真淵が直接書いたものではなく、真淵の講義を書きしるしたものである。
  刊行までの過程は、まず明和元年(1764)に萩藩の江戸藩邸に仕えていた吉岡ともひ子という女性が賀茂真淵から講義を受けて、それを書きとめた。ともひ子は野村長平(ながひら)に嫁いだが、それを出版することなく夫婦ともに亡くなってしまい、その後長平の弟の野村遜志(のぶもと)が知人である上田秋成に依頼して大阪で出版した、ということである。
  刊行がはじまったのが天明五年(1785)頃といわれるので、ともひ子が講義を聞いてから約20年後ということになる。賀茂真淵は明和六年(1769)に歿しており、上田秋成は賀茂真淵の門人の加藤宇万伎(うまき)(1721-1777)に明和三〜八年(1766-1771)頃入門していた。

  上田秋成の校訂の方針は「附言」の中の次の文によくあらわれている。

一  この書[フミ]。をみなの手のなだらかに書すさめるまゝに。所々よみうまじきが有。こは是が誤たらむとおもふも見えたるは。打ぎゝのいそしきに。筆の立まよひたらんにこそ。それら。此度おのがさがしらしてかうがへ改むるにあらず。前[サキ]に加茂の翁の撰ばれしふみどもによりてかいあらはし。且我師藤原の宇万伎ぬしの。時々[ヲリヽヽ]教へ聞えられし事どもを。わづかに書とゞめたる物らに牽合[ヒキアハ]せつゝ。今のたづきにはすなり。それがはし/\細書[コカキ]したるは。おのが兼てしもうたがひおける事どもを。ひとつふたつ打出しなり。そは此ふみ。たゞにうつゝ人のをしへをあひむかひをりて。承るがごとくなるにぞ。猶おぢなき問ごとしつゝ学ひもてゆく心ばへしたるを。必しもとがむる人の有ぬべし。又かしらに出せしは。もとの打聞にて。おのがさがしらにあらずと見よ

  つまり、書き誤りと思うところは真淵門下としての正当な方法で直し、上段のメモ書きも自分がつけたものではなく、自分の意見は細書にして本文とは明らかに区別できるようにした、ということである。「おのがさがしら」という言葉が二箇所に見えるが、大切なことなので念を押したのであろう。似たような繰り返しは最後の部分で、「打聴」は本来出版されることを前提に書かれたものではない、と言う部分にも見られる。

一  此ふみもとより木にゑらすべきに撰ばれし物にあらず。をり/\あひむかひて問ごとせしに。答へられし物故。ことえりをもせず。ついでなンどめやすからず。うみては。黙[モダ]しく過されし時もあらむ。すゞろぎては。舌疾言[トクコト]おほかる日もなくてやは。猶はし/\翁の筆とりかはりたまふよと見ゆる所々も有。又宇万伎ぬしの。かたはらに侍りて。助けたまふよと見えて。彼筆の跡もをちこち多かり。さるはあだし人に見すまじき打聞なるを。大かたの人の見たまひては。さればこそあづま人のいちはやびたれなンど思ふ所々も有ぬべし。ひとかたにのみ物学人は。なか/\にうつゆふのさきおもひはかりして。宮人のゆきかひおほらかなる道には。轅[ナガエ]さしむけがたかるべく。よく/\心のおにを和[ナゴ]してよみうべき物にこそ。そもこのかたの学びのみにはあらずなむ
一  此ふみもとより木にゑらすべからぬを。此度すゞろきたてるは。遜志の心なる事。はしにつはらかにて。おのれあづからぬものなり。さてなんかきゝよめたるを。猶おぼつかなうて。友なる岡雄[ヲトリ] 桑名ノ雅言等[マサアノリラ]に。よみかうがへさせしなり


  このように、ともひ子の書いた部分だけでなく、真淵自ら書き添えたり、高弟といわれた宇万伎も交えた講義の聞書と言われては、真淵門下やその流れをくむ人々の心を捉えないはずがない。本居宣長も自分が真淵に逢って入門した同じ年の講義(宣長が真淵に入門誓詞を出したのは明和元年(1764)一月、ともひ子が真淵の講義を受けたのが同年十一月から閏十二月)でもあるので、喜んで読んだのではないかと思われる。「遠鏡」での横井千秋の注も「打聴」の秋成の細書のスタイルに似ているといえなくもない。

  また、「打聴」が刊行されたのは天明五年(1785)頃から寛政元年(1789)にかけてであるが、その間の天明六年(1786)頃には、上代の音韻などをめぐって宣長と秋成は論争をかわしている。それでも宣長は、寛政五年(1793)頃に出来た「遠鏡」の中で秋成の「打聴」の細書の一部を評価しているのが印象に残る。
 
  附言の引用部分は 「賀茂真淵全集 第九巻」 (1978 鈴木真喜男 続群書類従完成会)を参考とした  


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