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       題しらず 伊勢  
1051   
   難波なる  長柄の橋も  つくるなり  今は我が身を  何にたとへむ
          
        難波にある長柄の橋も再建されているという、それでは今は長らえる気持ちもないこの身を何に譬えようか、という歌。

  「長柄の橋」は、 890番の読人知らずの歌が「世の中に ふりぬるものは」と詠っているように、「ながら」が 「永らふ」に掛けられて、古く残っているものの象徴とされていた。その譬えが今では使えなくなってしまったので、何に譬えようか、という歌である。音としては、「なには−に」/「難波なるーつくるなり」という合わせ方になっている。

  また、この歌の "つくる" は 「尽くる」と見る説もあり、その場合 「尽く」の連体形+断定の助動詞「なり」ということになるが、一般的には、仮名序に 「今は富士の山も煙たたずなり、長柄の橋も造るなり、と聞く人は歌にのみぞ心をなぐさめける」とある二つの 「なり」は終止形につく伝聞の助動詞「なり」であることから、この歌の 「つくるなり」も 「造るという」ということであるとされている。

  ちなみにこの点について、契沖は「古今余材抄」で、「...
その橋もつくられて人のしけくもゆきかへはふるくかよひくる人もなきわか身を今は何にたとへてなくさまんとよめる也...」と 「造る」と見、それに対し、賀茂真淵は「古今和歌集打聴」の中で、「...つくるは年ふりて尽る也又も造るに見るはあしゝ...今はふるされて人もかよはぬ中と成行を朽のこりたる橋にたとへて思ひをりしに其橋も朽つきたれば今はよたとへん物さへなしとなげきたるにや」と 「尽くる」と見ている。

  一方、上田秋成はその「打聴」につけた細書(=注)で、「
まさのり云此歌の詞書家の集にながらの橋つくる也と聞てと書けるは朽尽くる也と云事とも聞えず作る也と云心にいへるなるべし...」と、秋成の友人の桑名雅言(まさのり)が 「伊勢集」にこの歌の詞書として 「長柄の橋つくると聞きて」とあることを元に 「作る」ではないかと(契沖「余材」と同じように)言っていることを紹介した後、「...又思ふにつくるはくつるとありしを転倒して写なせしにもやともおもはるゝ也尽る也といふは今少おちゐぬやうにおぼゆかし」と、「つくる」は 「くつる」の写し間違いかも、という説を述べている。

  それを同時代の本居宣長は「古今和歌集遠鏡」の中で、「...
ソノ長柄ノ橋モ 今度新シウ出来タヂヤ...」と 「作る・造る」で訳しており、特に(他の歌に見られるような)「打聞わろし」などの寸評はつけていない。
 
( 2001/11/19 )   
(改 2004/02/19 )   
 
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